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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年3月1日 マルコ10:32~45 「イエスが飲む杯」

投稿日:2026年3月1日 更新日:

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【招詞】「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

【第一部】「イエスが飲む杯」を前に――進む者とついていく者

今日私たちが向き合うのは、イエスがご自身の十字架の道を予告されたこの場面です。マルコ10章32~45節に記されているのは、三度目となる「エルサレムへの道」を進む旅の途上で、イエスが弟子たちに向けて語られた非常に重要な言葉です。まず、イエスの歩みの始まりから見てまいりましょう。

《「先頭に立って進んで行かれた」》

“一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。”(10:32)

ここには、イエスのご自身から苦難への道へ向かわれる意志があらわされています。主は決して巻き込まれるのではなく、自ら先導されるのです。弟子たちはその姿に心を揺さぶられ、恐れ、驚きを覚えました。しかし重要なのは、彼らが恐れる中でも黙ってついて行っているという事実です。これこそ、信仰とは「従う意志」によって支えられていることを示しています。

主は奥へ、深くへと導かれる――弟子たちはその一歩一歩を踏み出していきます。ここから、イエスが「杯」と「洗礼」というメタファーで語られる中核に入っていきます。

《三度目の予告――「人の子が受ける十字架の杯と洗礼」》

そしてイエスは、静かに、しかし毅然と語り始めます。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。…人の子は…十字架へと向かう」(10:33–34)

ここで語られる「杯」は、イスラエルの伝統でしばしば苦しみや最後の裁きを象徴します。イエスは「飲む杯」と「受ける洗礼」としてその試練を言い表し、弟子たちに覚悟を促します。すでに三度目となる今回の予告ですが、一度目、二度目よりも重みを増して伝えられていると感じられます。

イエスは、受け取られるべき苦しみを自ら引き受けてなお、「三日の後に復活する」ことを告げます。これは、絶望ではなく神の「復活計画」の中心にある勝利を知らせる言葉です。弟子たちは恐れに包まれる一方で、なお主の予言を聞いている――そこには信頼と未熟さが混ざり合っています。

《ヤコブとヨハネの願い――不器用な野心と十字架の相違》

その後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに願います。

「先生…わたしたちに右と左の席をください」 (10:37)

この願いには、光と影が同時に表れています。一方では「あなたの栄光にあずかりたい」という素直な思い。その一方で「十字架の苦しみ」への理解の欠如があらわです。弟子たちは恐れと期待のはざまで揺れているのです。

イエスはそれに応えます。

「…これを飲むことができるか?」(10:38)

ここで「わたしたちも飲めます」と答えた彼らに対し、主は「確かにそれを飲む」と言いながらも、「席はわたしが定める」と宣言されます。栄光を望むように促されても、そこには「主の決められた目的」への信頼が求められているのです。

《十人の不満と仕える者の道――主の逆説》

ヤコブとヨハネに対して他の弟子たちは怒りを覚えました。そこでイエスは群れを集めてこう話されます。

「異邦人の間では…支配し…偉くなる
しかしあなたがたの間では…偉くなりたい者は、みな仕える者になり…」(10:42–44)

この言葉は、主の弟子たちへの逆説的な教育です。「偉さ」は服従や支配ではなく、他者への奉仕と自己犠牲によって顕されるのです。十字架は力の誇示ではなく、愛の行動であり、「飲む杯」はそこから出る命の源でもあります。

さらにイエスは宣言されます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために…命を身代金として献げるために来た」(10:45)

ここにメシアの本質が示されています。権力ではなく犠牲、支配ではなく奉仕。弟子とは、その姿に自らを重ねる者です。

《「杯」を受ける道を選ぶか》

では、イエスがご自身の十字架の道を自ら進まれる姿、弟子たちの未熟さと信頼、そして仕える者への呼びかけが描かれています。

皆さん、刻印される問いはこうです:
・あなたは主の先導する道を恐れながらも進もうとしますか?
・主の「杯」を分かち合う覚悟を持っていますか?
・力ではなく、仕える者として歩む覚悟がありますか?

ではイエスが「杯を飲む」「洗礼を受ける」という言葉に込められた、さらに深い霊的意味とその呼びかけを掘り下げてまいります。それを通して、「イエスが飲む杯」とは何か、信仰においてどう向き合えばよいのかを共に考えていきましょう。

【第二部】“杯を飲む”覚悟――知る者から行う者へ

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスが十字架の道を進まれるご自身を前に、弟子たちが驚き、付き従う姿を見ました。今、イエスの「杯」と「洗礼」に触れようとする弟子たち――ヤコブとヨハネ――を通して、ただ知るだけの信仰から、実際にそれを生きる覚悟へと導かれていく道を一緒に見つめてまいりましょう。

《右と左を願うヤコブとヨハネの願い》

イエスがエルサレムへ向かう道中、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネは、勇気を出してイエスに申し出ました:

「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。…栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10:35–37)

彼らの願いは、「栄光」と「近さ」への渇望でした。弟子たちは、メシアが王として現れる日を思い描き、パワーブローカーのようにその栄光を共有しようとしています。しかしそれは、彼らが「神の望み」ではなく、「自らの希望」に基づいて願っているということを示しています。

《杯と洗礼――知っているのか、それとも体験できるのか》

イエスはその願いを聞いたあと、穏やかながら重みある問いを投げかけられました:

「このわたしが飲む杯を飲むことができるか。受ける洗礼を受けることができるか。」(10:38)

ここで使われているギリシア語「ποτέω(飲む)ピーノー」と「βάπτισμα(洗礼)バプティスマ」という言葉は、イエスが迫り来る苦しみをどれだけ現実と捉えているかを見たうえでのみ答えられる問いです。ヤコブとヨハネが「できます」と答えたとき、彼らは知識としてその言葉を言葉として再現したにすぎませんでした。十字架の苦しみ、裏切り、そして神からの距離――その現実を自らの人生の身体に受け止める覚悟がなければ、ただの願いに留まるのです。

《杯を共にする者と栄光を共にする者》

イエスは約束されました。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、洗礼を受けることになる。」(10:39)

ここには、主が二人に与える覚悟の重みと、自らが示される模範への従順の呼びかけが重なっています。ただしイエスは続けられます:

「しかし、わたしの右や左に座るかどうかは、わたしの決めることではない。それは、定められた者に許されることだ。」(10:40)

つまり、救いの座に最前列で座るという特権は、イエスが裁かれることではありません。神の選び主権と摂理の中にゆだねるべきものなのです。ヤコブとヨハネが志した願いは、その地位への憧れであり、主に与えられる「杯を分かち合う道」の本質を見失っています。

《十人の弟子たちへの怒り――支配ではなく仕える者となる争い》

この出来事に反発した他の弟子たちは、ヤコブとヨハネに対して怒りを抱きました。イエスはその場で弟子たちを呼び寄せ、はっきりと語られました:「異邦人の間では、支配者が皆を支配し、偉い人が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうではない。あなたがたの間で偉くなりたい者は、みな仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:42–44)

イエスはここで、救いの道における価値観が世と逆であることを示します。「大きくなりたいなら、仕えなさい」。これは、すべての弟子たち、「右や左」を望んだ者も、怒った者も含め、変革へと導くための核心的な教えです。

《人の子としての召命――命を身代金として捧げる》

そしてイエスは、自らをメシアとして語りながらも、その使命は他者のための犠牲であることを鮮明にされました:「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)

「身代金」の言葉は、イエスが十字架で人々を神との関係に立ち戻らせるために、自らの命を支払うという福音の頂点を示しています。これは弟子たちへの訓練でもあり、教会のすべての構成員への招きでもあります。弟子とは、自らの命を「身代金」として差し出す者、すなわち「仕える者」であるべきなのです。

《今、私たちへの問い――誰の杯に注ぐのか》

今、私たちもこの呼びかけに直面しています。
・あなたはどんな「杯」を望んでいますか? 栄光の座ですか? それとも苦難と仕えの杯ですか?
・あなたは「上に立つ」ことで満足しますか? それとも「仕えることで満足」しますか?
・主が定める「杯」と「座」があったなら、それに従う覚悟はありますか?

ヤコブとヨハネの未熟さと、イエスの招きがどれほど深く対照されているかをご覧いただけたでしょうか。信仰とは、単なる知識や期待ではなく、イエスが飲まれた杯――十字架と即死を受け入れ、命を捧げる行程に加わることなのです。

次は、弟子たちと教会に向けられたさらなる問いを探ってまいります。

【第三部】「仕える者こそ、最も大いなる者――主の杯に与る私たちの召命」

これまで私たちは、イエスが十字架へと向かう厳粛な旅の途上で語られた言葉の中に、深い主の覚悟と弟子たちの未熟な願いとが、鋭く対照をなしている場面を見てきました。そして、主はそうした弟子たちの思いにただ失望するのではなく、むしろ、その未熟さを真っ向から受け止めながら、彼らを「仕える者」へと導こうとされたのです。

では、この福音書の結びの部分において、私たちはどのような「応答」へと招かれているのでしょうか。ここからは、主イエスご自身の生き様に目を注ぎながら、私たちがどのようにこの道に生きていくべきかを、共に考えてまいりましょう。

《主の「前進する姿」から始まる福音》

物語の最初に記されていたのは、イエスがエルサレムへ向かって「先頭に立って進んで行かれた」という場面でした。

「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(マルコ10:32)

これは、単なる移動の描写ではありません。イエスがどのような使命をもって、どのような姿勢で歩まれていたのかを明確に示す一文です。つまり、主は御自分がこれから受ける苦しみと死を知っていながら、それでもなお、迷いも恐れもなく、「先頭に立って」歩みを進めておられたのです。

この姿は、私たちに対して次のような問いを投げかけます。「あなたもまた、主と共に、苦しみの道を歩む覚悟があるか?」

《「仕える者」とは、誰のために生きるのかを決めた人》

この箇所の中心にあるのが、イエスの次の御言葉です。

「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:43–44)

ここで語られている「仕える者(διάκονος)ディアコノス」とは、単に裏方に徹するという意味ではありません。それは、自分の人生の焦点を、自分自身から他者へと移すことを意味します。つまり、「誰のために生きるか」が問われているのです。

私たちは、日々の中でこの問いに直面しています。「この仕事をする目的は何か?」「この奉仕は、誰のためにしているのか?」「この時間、この力、この命は、誰に向けて使われているのか?」

イエスはここで、偉くなることを否定しておられるのではありません。むしろ、偉さとはどのように決まるか、という新しい定義を与えてくださっています。偉くなること、上に立つこと、それは「仕えること」と「僕となること」を通してのみ達成される。これが天の国における逆転の秩序なのです。

《主の十字架の意味――「命を身代金として献げる」》

そして、福音書記者マルコは、この段落の最後で、イエスの生涯の核心をこう語ります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

この言葉は、福音書全体の中心と呼ばれるにふさわしいものです。「身代金」とは、当時、奴隷を買い戻すために支払われた贖い金のことでした。つまり、イエスはご自身の命をもって、私たちを罪と死と束縛から解き放つために支払いをされたというのです。

そしてこの「身代金としての命の献げ」は、私たちの生き方のモデルでもあるのです。仕えるとは、ただ言葉や行動で奉仕することではありません。それは、時に自分の権利を放棄し、損をし、背負い、犠牲を払うというかたちで現れることもあるのです。

《この御言葉にどう応答するのか》

では、私たちはこのイエスの道に、どう応答すべきでしょうか。

ここで、今日の説教の招詞を改めて心に刻みましょう。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

この御言葉は、私たちに語りかけています。「あなたの人生は、仕えられるためのものか? それとも仕えるためのものか?」

教会の中でも、家庭でも、職場でも、社会の中でも――私たちは常に選ぶことができます。誰かの足を洗う者となるか、それとも自分の座を求めて立ち上がる者となるか。

イエスは、王のような姿で玉座に座って弟子たちに命令するのではなく、自ら「杯を飲み」「洗礼を受け」「命を差し出す」者として模範を示してくださいました。その姿に倣うとき、私たちもまた、この世の価値とは異なる「真の偉大さ」を生きることができるのです。

《仕える者としての喜びを知る歩みへ》

皆さん、この福音書の一連の教えは、私たちに一つの問いを突きつけています。「あなたは、どの道を歩むのか?」

それは、上に立つ者ではなく、仕える者としての道です。誉れを受けるのではなく、他者の痛みに寄り添い、主の十字架の愛をもって世に仕える者となる道です。

私たちはこの主の杯に与ることを求められています。簡単な道ではありません。けれども、その道の先には、主が共に歩まれ、共にいてくださるという約束があります。そして主は、あなたがその道を歩むとき、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言ってくださるのです。

 

【お祈り】

イエス・キリストの父なる神よ、

あなたは、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、仕える者としての模範を私たちに示してくださいました。主は仕えられるためではなく、仕えるために、そして私たち一人ひとりの罪を贖うために、その命を献げてくださいました。

私たちは今日、その御言葉に触れ、「偉くなりたい者は、皆に仕える者となれ」との招きに、静かに耳を傾けました。どうか、私たちの心を柔らかくし、自分の栄光や立場を求める思いから解き放ってください。そして、主が飲まれた杯を、主と共に担う者として、歩ませてください。

高ぶる心ではなく、へりくだる心を。自分のために生きるのではなく、他者に仕える喜びに生きる力を、与えてください。

主が先頭に立って歩まれたように、私たちもまた、恐れずについていくことができますように。主の命に応える者として、私たちの日々の歩みを整えてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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