1.エルサレム教会への献金問題
・パウロは第二コリント8章に続いて9章でも、「献金」の問題を取り上げる。大事な問題だからだ。パウロは異邦人教会への宣教と同時に、エルサレム教会への献金運動を同時に行っていた。エルサレムの貧しい人々を支援すると同時に、不和の目立つエルサレム教会と異邦人教会の和解のためであった。
-ローマ15:25-27「今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」。
・献金の業を遂行するために、テトスと同行者の二人をコリントへ派遣する。
-第二コリント8:16-19「彼は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」。
・複数者を送るのは、献金運動についての誤解を解くためであった。コリントではパウロが献金を掠め取っているとの批判があった。教会がお金を扱う時にはこの慎重さが必要だ。
-第二コリント8:20-21「私たちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」。
・コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的だった。その教会にパウロは「捧げなさい、捧げることは捧げる者の益になるのだ」と勧める。「豊かに播く者は豊かに収穫するのだ」と。
-第二コリント9:6-8「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。
2.和解のしるしとしての献金
・聖書の中で唯一「神を試しても良い」とされているのが、十一献金を勧めるマラキ書だ。生活に不安を感じるほど捧げてみよ、そのことを通してあなたが神に生かされていることが明らかにされるであろう。
-マラキ3:10-11「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。また、私はあなたたちのために、食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる」。
・神は献げ物を必要とはされないが、必要とする人たちがいる。私たちの献げ物を用いて、神は他者を養われる。出すばかりで馬鹿らしいと言ってはならない。神はあなたを飢えさせることもお出来になるのだ。
-イザヤ55:1「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。
・あなたが献げる献げ物の原資を下さるのは神ではないか。自分の物を献げるのではなく、神のものを神に返すのだ。パウロは献金を種蒔きに喩える。「豊かに播く者は豊かに収穫する」。蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結ぶが、蒔かない種からは収穫はない。献金を通して「関係の改善」が始まる。
-第二コリント9:10「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」。
・神の物を神に返した時、献金の業が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる。
-第二コリント9:11-12「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。何故なら、この奉仕の働きは聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」。
・パウロの願いは、献金の交わりを通して、エルサレム教会と異邦人教会の間の誤解が解け、共に神を讃美するようになることだ。
-第二コリント9:13-14「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」。
・パウロは献金を「贈り物」と表現する。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味だ。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語る。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていく。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのだ。
-第二コリント9:15「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」。
3.再び献金を考える
・ギリシャ語の献金には、「ロゲイア」と「カリス」という言葉の二つがある。ロゲイアの語源はロゲオー=集める、集金する、現代の教会用語では「教会維持献金」になる。教会は維持経費が必要で、それを月約献金、建築献金として、教会員の方々に拠出をお願いする。
・ただ第二コリント書で用いられる言葉はカリス=恵みだ。「恵みとして捧げもの」である。「エルサレム教会への献金は、自分の教会には直接的な恩恵をもたらさないが、神の宣教の業に参加する恵みの出来事なのだ」とパウロは語る。諸教会に捧げるために用いられる連盟への協力伝道献金はこのカリスになる。私たちは自分たちの教会を支えるためのロゲイア的献金は捧げるが、直接の見返りのないカリス的献金を捧げることには躊躇する。その時第一コリント12:26の言葉が響いてくる。
-第一コリント12:26「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。
4.その後のパウロ
・パウロは献金をもってエルサレムに向かうが、その途中、ミレトスにエフェソ教会の長老たちを呼び、別れの時を持った。パウロはエルサレムに戻れば、ユダヤ人からの迫害が起こることを予期している。
-使徒20:22-24「『そして今、私は、“霊”に促されてエルサレムへ行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。』」
・パウロは伝道者の生涯を駈け抜けようとしている。それは彼が選んだ生涯ではなく、神に選ばれ、神に命ぜられた、生涯だった。パウロは帰国したエルサレムでユダヤ教徒に襲われ、投獄され、獄中からローマ皇帝に上訴したため、ローマへ回送され、その地で処刑された。殉教の生涯だった。パウロの持参した献金をエルサレム教会が受け取ったかどうか、どのように用いたかについては、使徒言行録は何も語らない。市川喜一は使徒言行録注解書の中で語る。
-市川喜一注解から「ルカが献金問題に触れている箇所は使徒24:17のみです(「私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかに戻って来ました」)。ルカはその後、この献金問題に触れません。パウロにとって、この献金問題は終末的な神の支配におけるイスラエルと異邦人の統合を象徴する救済史的な意義を担う重要な課題であり、生命の危険を冒してでも成し遂げなければならない使命でした。ところが紀元70年のエルサレム神殿の滅亡とエルサレム教会の消滅を知るルカにとっては、献金問題はその重要性を失っています。パウロは「キリストの再臨におけるイスラエルの救済と異邦人の参加」を確信しています。それに対してルカは、すでに起こったエルサレム神殿の崩壊を不信のユダヤ人に対する神の審判と見て、今は「異邦人の時代」が始まっていると見ています。ルカにとって、エルサレム教団への献金はもはやイスラエルと異邦人の統合を象徴する重要問題ではなくなったのです」。
・私たちには未来は見えない。私たちがするべきことは今現在必要とされる業を行うことだ。未来は主に委ねる、それでよいのではないか。