江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年8月23日祈祷会(第一コリント1:1-18、コリント教会の混乱の中で)

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1.互いに争い合うコリント教会の人々

 

・コリント教会は多くの問題を抱えていた。それらの問題に対処するため、パウロは何度もコリント教会に宛てた手紙を書いている。新約聖書には二通の手紙(第一、第二)だけが収録されているが、実際は四通ないし五通の手紙が書かれたと考えられている。コリント第一の手紙は紀元55年頃、滞在先のエペソで書かれた。

・パウロは先にアテネで伝道し、哲学や論理学の助けを借りた堂々たる説教をしたが、アテネの人々は受け入れず、失意の内にコリントに来た(使徒17:32以下)。パウロは語る「そちらに行った時、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(2:3)。パウロは自信を失くしていた。しかしコリントでは先に来ていた「プリスカとアキラ」の協力のもと、パウロは再び福音を語り始める。

-使徒18:1-4「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた」。

・パウロはコリントでは「十字架につけられたキリスト」だけを語り、その結果回心者が次々に起されていった。

-第一コリント2:3-5「そちらに行った時、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」。

・コリント教会のメンバーの多くは貧しい人々であり、奴隷もその中にいた(コリントの人口70万人の内、50万人は奴隷だったと言われている)。メンバーの中にはユダヤ人もいたが、多くは改宗した異邦人信徒であったと思われる。パウロは教会設立後、アポロにコリント教会を委ねて、エペソ教会の開拓伝道に赴く。

-使徒18:28「アポロがアカイア州(コリント)に渡ることを望んでいた・・・アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」

・エペソにいたパウロの処にコリント教会から使いがあり、教会内で分派争いが起き、混乱していることを彼は聞いた。教会はその他の懸念事項についてもパウロに質問してきた。パウロはそれらへの回答として、この手紙を書いている。

-第一コリント1:11-12「あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです」。

・パウロが去った後のコリントでは、教会内に対立が起きていた。パウロに導かれてバプテスマを受けた人々は、パウロの教えを大事にした。ただパウロの説教は朴訥で難しかったようだ。他方、パウロの後継者アポロは博識で雄弁であり、その説教に感動した人々は、アポロ派を形成していった。人々は指導者の外見や説教で、「私はアポロに、私はパウロに」と争っていた。アポロはその後コリントを去り、手紙が書かれた当時、コリント教会は無牧師で、母教会のエレサレム教会からの巡回伝道者が訪れて、バプテスマを授けていたようだ。巡回伝道者からバプテスマを受けた信徒たちは、「エルサレム教会の指導者ペテロこそ本物の使徒だ」としてペテロ派になったのであろう。こうしてコリント教会は分裂状態に陥っていた。

-第一コリント1:13「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」

・「教会の頭はキリストであり、牧師はキリストに仕える僕に過ぎないのに、何故、キリストの僕である牧師が、主であるキリストより重視されるのか」とパウロは問いかける。

-第一コリント1:17「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」。

・コリント教会は、教会としては成り立ち得ないほどに欠点を多く持つ教会であった。しかしパウロは争いを繰り返すコリント教会を「神の教会」と呼び、教会員を「召されて聖なる者となった」と呼ぶ。正しいから「聖徒」なのではなく、召された故に「聖徒」なのである。

-第一コリント1:1-2「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。」

 

2.十字架の愚かさこそ神の知恵である

 

・パウロは、教会の人々に、「あなたがたが分派争いを行うのは、十字架の意味を理解していないからだ」と語る。この問題は信仰の本質にかかわるとパウロは認識している。

-第一コリント1:18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」。

・十字架の言葉とは、「神が人間を救うために十字架にかかり、無残にも死なれた、そのことに意味を見出すか」という問いかけだ。それは人間の知恵(理解)を超える神の知恵だ。

-第一コリント1:21「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

・十字架はユダヤ人にとっては「呪われたもの」だ。「ユダヤ人はしるしを求めた」、彼らは目に見える証拠を見せよと迫った。ユダヤ人が求めたメシア(救い主)は、異邦人占領者ローマを聖地から追い出す力を持つ栄光のメシアであり、十字架で死ぬ弱いメシアではない。

-マルコ15:32「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。」

・ギリシア人は「知恵を探す」。ギリシア人にとって、神とは理性に満ちた存在であり、十字架で死ぬ愚かな神ではない。ましてや死人の復活など彼らには信じられない。パウロはアテネでの宣教に失敗した。

-使徒言行録17:32-33「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。」

・アテネでの失敗から立ち上がったパウロは、コリントの人々に語る「十字架はユダヤ人には呪いであり、ギリシア人には愚かなものであるが、信じる者には神の力である」と。

-第一コリント1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

・十字架刑は残酷な拷問と処刑であり、おぞましいものだ。しかし、神はイエスをこの十字架で死なしめられ、そのことを通して人間の罪の有様を見えるものにされた。人間は有史以来戦争を続けてきた。戦争、殺し合いこそが人間の本質であり、人間は他者を傷つけ、殺してまで、自分の尊厳を守ろうとする。「歯向かう者は殺す」というこの世の有様を文字通りに提示するのがキリストの十字架だ。パウロが出会ったイエスは「十字架につけられたままの」、「惨めさを担い続けた」方であった。

-ガラテヤ3:1「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられたままの姿ではっきり示されたではないか。」

・パウロは、「あなたがたがキリストの十字架の意味を真剣に受け止めないから、このような争いが起きる」と語る。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1:18)。私たち人間の本質は「自己中心=エゴ」であり、このエゴが教会を壊す。「私はパウロに」、「私はアポロに」、と主張する時、そこには、“私”しかなく、キリストがない。主語が “私”の信仰は未熟な信仰であり、未熟だから他者と争うのだとパウロは語る。

-第一コリント3:1-4「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」。

・主語が“私”から“キリスト”になった時、成熟した信仰になる。成熟した信仰者が集まる時、争いは起きない。意見の違いはあっても、違いが争いにならない。それは、私ではなく、「キリスト」が何を望んでおられるかが、行動基準になるからだ。

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