1.イスラエルを救済した主を賛美する
・149編は「新しい歌を主に向かって歌え」という言葉で始まる。造り主である主を、楽の音と踊りを持って褒め讃えよと呼びかける
-149:1-3「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌を歌え。イスラエルはその造り主によって喜び祝い、シオンの子らはその王によって喜び躍れ。踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でてほめ歌を歌え。」
・「新しい歌を主に向かって歌え」の言葉の出典はイザヤ42章である。第二イザヤは民にバビロンの捕囚地からイスラエルを解放する主を賛美せよとして、「新しい歌を、喜びをもって歌え」と呼びかける。
-イザヤ42:10-13「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちる者、島々とそこに住む者よ。荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ。主は、勇士のように出で立ち、戦士のように熱情を奮い起こし、叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される」。
・四節以降で、「主は彼の民に厚意を寄せ、救いを持って虐げられた者たちを装われる」と歌う。虐げられていたイスラエルの民に救いが与えられた。だから主を賛美し、喜べと促される。
-149:4-6「主は御自分の民を喜び、貧しい人を救いの輝きで装われる。主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み、伏していても喜びの声をあげる。口には神をあがめる歌あり、手には両刃の剣をもつ。」
・後半は、真実な者たちを苦しめて来た地上の諸権力が神に依って報復と懲罰を受けるゆえに、真実な者たちは憩いの中で喜び、歓喜するように促す。
-149:7-9「国々に報復し、諸国の民を懲らしめ、王たちを鎖につなぎ、君候に鉄の枷をはめ、定められた裁きをする。これは、主の慈しみに生きる人の光栄。ハレルヤ。」
2.新しい歌を主に向かって歌え
・「新しい歌を主に向かって歌え」で始まる詩篇は他に96編、98編がある。詩編96編の70人訳では「捕囚の後、家が建てられた時」との前書きがある。家はエルサレム神殿を指す。詩編96編はバビロンからの帰還民が第二神殿を建設し、神殿における新年の祝いの時に歌われたものとされる。
-詩篇96:1-13「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業を・・・国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる・・・主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる」。
・国を滅ぼされた民族が70年の時を経て帰還し、新しい国を造ることはこれまでの歴史ではなかった。ありえないことが起こった。だから「新しい歌を歌い、その良き知らせをあらゆる民に語り伝えよ」と民は促される。この贖いを体験したイスラエルの民は、諸国の民と共に主を賛美する。主が世界の創造者であれば、全ての国民も主の支配下にある。現実政治では、小国イスラエルは大国の保護のもとに、国の存立を考えざるを得ない存在であった。それにもかかわらず、詩人は諸国の民に王である主を賛美するためにエルサレム神殿に参詣して、その安泰を願えと語る。「主はイスラエルの神であるだけはなく、世界を創造し、支配される神だ」とイスラエルは信じた。
-詩篇96:7-10「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる」。
・詩編98編は96編と同じく、バビロン捕囚からの帰還という主の驚くべき業を体験した詩人が、「共に見よ、共に主を賛美せよ」と呼びかける詩である。歴史上なかった亡国の民の帰還という驚くべき出来事が起こったのだ。だから新しい時代に即した新しい歌を歌うと詩人は賛美する。
-詩篇98:1-9「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は、私たちの神の救いの御業を見た・・・主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる」。
3.詩篇149編の黙想
・詩篇96編、98編、149編は、捕囚帰還後の度重なる挫折にも関わらず、「主は再び来られる」とメシアを待望した歌である。エッサイの株=ダビデ王朝はなくなり、切り株だけになっても、主はそこから新しい芽を送って下さると人々は信じ、そのメシア待望が詩編96編、98編、149編を書かせた。そこにはイザヤ11章と同じメシア待望が脈打っている。この信仰がある限り人々はいつでも再起できる。私たちが、「主の驚くべき御業」に信頼し、挫折の連続の中で、主の来臨を待望し続けた時に、そこに奇跡が生まれる。
-イザヤ11:1-5「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する・・・正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」。
・イザヤは来たるべき世界を、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」平和の世界として描く。
-イザヤ11:6-9「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳呑み児は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」。
・聖書では、国には、「神の国」と「世の国」があると語る。世の国の支配原理は力であり、その勢力は国境によって定められる。そのため、世の国、地上の国々では、「国境」や「民族」を巡って、力と力がぶつかって戦争が絶えない。しかしイスラエル民族は国境や民族を超えた「神の国」を求めた。力による支配は必ず滅びることを彼らは知っていた。注解者月本昭男は述べる。
-詩篇96編注解「栄光と力は、諸国民を支配する地上の大王にあるのではない。栄光と力を帰すべき存在は、天地万物の創造者である神ヤハウェ以外にはない。この神こそ、真の王として、民族の大小強弱に関わりなく、世界のあらゆる民を義と信実によって公平に治められるであろう。諸民族は地上の権力者の下ではなく、この神の下に集わねばならない。地上のいかなる絶対権力をも相対化する視座がここにある」。
・救済体験こそが、人に「神はおられる」ことを知らしめ、新しい歌がそこに生まれる。神は不思議な業を通して、私たちにご自分を啓示される。この神が私たちと共におられる神だと信じる時、人は絶望から立ち上がることができる。
-カール・バルト教義学要綱から「神はアブラハムを召し、イスラエルの哀れな民を砂漠の中を導かれ、民の幾世紀にもわたる不信実や不従順によっても惑わされることのない方、ベツレヘムの家畜小屋の中に幼児として生まれ、ゴルゴダにおいて死に給う方である。この神が栄光に満ち、聖くいます方だ」。
・遠藤周作は「私にとって神とは」の中で語る。「私たちは神の存在を証明することはできない。しかし、神の働きを感じることはできる。だから私は「沈黙」に中に書いた『私は沈黙しているのではない。お前の人生を通して、私は語っているのだ』と」。私たちを通して神は働かれる、その認識が私たちを導く。
-ヘンドリック・クレーマー「信徒の神学」から「初代教会においては、信仰と生活は一致していた。しかし、現代においては、信徒は世俗的関心に忙殺され、真に信仰者として生きることが難しくなっている。神は世と関わりを持たれる方であるゆえに、教会もまた世のために存在する。しかし、教会の関心は、教会自身の増大と福祉に注がれ、教会は自己中心的に思考し、世に対する関心は二次的であった。しかし、教会は宣教のための器として立てられた。教会はキリストに仕え、世に仕えていく。そこでは牧師と共に信徒も宣教の業を担う。信徒こそが世に離散した教会である。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく使命を持つ」。