1.ステファノの説教、アブラハムからモ-セへ
・ステファノは捕らえられ、最高法院で裁かれた。大祭司が始めた審問を遮るようにステファノは説教を始める。ステファノは律法に違反し、神殿を冒涜した罪で告発されたが、「モーセを軽視し、神殿をないがしろにしているのはユダヤ人である」ことを立証するために、ユダヤ人たちがいかに神に逆らってきたかを歴史の中で論証しようとした。
-使徒7:1-3「大祭司が『訴えのとおりか』と尋ねた。そこで、ステファノは言った。『兄弟であり父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだ、ハランに住んでいました時、栄光の神が現れ、「あなたの土地と親族を離れ、私が示す土地へ行け」と言われました。』」
・ステファノは、アブラハムの生涯を語り続ける。アブラハムの名は「多くの国民の父」を意味し、偶像崇拝の地カルデアに生まれたが、「約束の地カナンに行け」との神の声を聞いて出立する。
-使徒7:4-5「『アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました、神はアブラハムを・・・ハランから今あなたがたが住んでいる土地にお移しになりました・・・まだ子供のいなかったアブラハムに対して「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる」と約束なさったのです』」。
・神はアブラハムと契約を結び、契約はイサクからヤコブへと代々伝承され、ヤコブから生まれたヨセフは奴隷に売られ、エジプトに渡る。やがて来るイスラエル一族の受け皿となるためである。
-使徒7:8―10「『神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。この族長たちはヨセフを妬んで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりなした。』」
・その後に起こったカナンの飢饉がイスラエル民族のエジプト定住を導く。ヤコブ(イスラエル)一族はエジプトに定住する。神がエジプトでイスラエルを民族として育んでくださったとステファノは歴史を振り返る。
-使徒7:11-17「『エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、私たちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました・・・そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました・・・ヤコブはエジプトへ下って行き、やがて彼も私たちの先祖も死んで、シケムへ移され、かつてアブラハムがシケムで・・・買っておいた墓に葬られました。神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。』」
・時代が移るに従い、ヨセフのことを知らない王たちはイスラエル民族を迫害し始める。モ-セはイスラエルの民の危難の時、救済者として生まれた。
-使徒7:18-22「『ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者になるまでのことでした。この王は、私たちの同朋を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モ-セが生まれたのです』」。
2.ステファノの説教、モ-セからソロモンまで
・ステファノは「神はモーセを立てて先祖をエジプトから救い出されたが、民はモーセを拒否して偶像礼拝にふけった」とユダヤ人批判の方向に話しを移し始める。
-使徒7:30-36「『四十年たった時、シナイ山に近い荒野において、柴の燃える炎の中で、天使がモ-セの前に現れました・・・そのとき、主はこう仰せになりました。「私は、エジプトにいる私の民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトへ遣わそう」・・・この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました・・・けれども先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い、アロンに言いました。『私たちの先に立って導いてくれる神々を造って下さい』」。
・モーセを冒涜したのは私ではなく、あなた方の先祖たちだと論証した後、ステファノは神殿の問題に切り込む「あなたがたは私が神殿を冒涜したというが、人の造った神殿に神が住まわれないと最初に言ったのはソロモン王ではなかったか」と。
-使徒7:47-48「『神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです』。
3.ステファノの殉教が伝道者パウロを生んだ
・最後にステファノはユダヤ指導者を告発する「モーセと神殿を冒涜しているのは、あなたたちなのだ」と。
-使徒7:51-53「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が一人でもいたでしょうか。彼らは正しい方が来られる事を預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたはその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
・自分たちの罪を批判されたユダヤ人は、理性を失い、怒りに燃えて、ステファノ目がけ殺到した。ステファノは逃げることなく、この苦難を受けていく。彼の最後の言葉は十字架上のイエスと同じだ(ルカ23:34)。
-使徒7:54-56「人びとはこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた・・・人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、私の霊をお受けください』と言った。それからひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って眠りについた。」
・ステファノの殉教の場にはサウロ(後のパウロ)がいた。
-使徒言行録7:57-58「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」。
・その場にいた迫害者サウロは思ったのではないか。何故彼らキリスト教徒たちは自分を殺す者のために祈ることが出来るのか。その後パウロはキリスト教徒たちを弾圧するが、彼らを尋問しながら、「何故彼らは敵のために祈ることが出来るのか」、「もしかしたら彼らの方が神に近いのではないだろうか」と思い続けたのかもしれない。それがある時、「サウル、サウル、何故、私を迫害するのか」という声としてパウロに響いたのだと思える(使徒9:4)。
・私たちもそれぞれの人生の物語の中で復活のキリストに出会う。聖書を読んでいる時、説教を聞いている時、あるいは苦難の中で泣いている時に、神の言葉が心の中に響く体験をする。それは現代でも繰り返し起こっている、だからこそ、人は洗礼を受けて、自分の信仰を表明する。
・パウロはかつて自分の信じる正義を人に押し付ける傲慢な人だった。その彼は復活のイエスに出会った後に告白する「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。パウロは自らの熱心を人に押し付ける者から、他者のために苦しむ者に変えられた。同じ経験をした私たちも唱和する「私たちの古い自分はキリストと共に十字架につけられた」(ローマ6:6)、だから私たちは「キリストと共に生きる」(同6:8)。
・教父アゥグスティヌスは「教会にパウロが与えられたのは、ステファノの祈りによる」と述べている。アメリカ聖公会の司祭バーバラ・テイラーは語る「ユダヤ教徒とキリスト教徒を分けたのは『モーセを通して語られた神の言葉に忠実であり続けるか、それとも神がイエスを通して言葉を新しく語り直しておられると信じるか』である」(バーバラ・テイラー「天の国の種」)。