1.洗礼者ヨハネとイエス
・イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、受洗後も故郷には戻らず、ヨハネの下で学びを深められた。しかし、イエスは次第にヨハネの言動に違和感を持たれるようになる。ヨハネのように「罪びとを断罪し、悔い改めに至らせる」ことが、果たして「神の国の知らせなのか」という疑問を持たれた。その後、ヨハネはガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスを批判して捕えられ、死海のほとりのマケロス要塞に幽閉される。イエスはそれを契機にヨハネ教団から独立して、宣教を始められた。
-マタイ4:12-17「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた・・・その時から、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた』」。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届く。ヨハネの使信は、「裁きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされる」というものだった。ヨハネが期待したメシアは、不信仰者たちを一掃し、新しい世を来たらせる裁き主だった(3:11-12)。しかし、イエスは罪びとと交わり、貧しい人を憐れみ、病人を癒されている。裁きの時に罪びとは滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪びとの救いのために尽力されている。ヨハネはイエスの在り方に疑問を感じ、弟子たちを通して尋ねる。
-マタイ11:3「イザヤの預言した、来るべき方はあなたなのですか。あなたは本当にメシアなのですか」。
・そのヨハネにイエスはイザヤ35:5-6を引用してお答えになった。
-マタイ11:4-5「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
・イエスは人々に天の父が彼らを愛し、養い、導いて下さることを告げ知らせ、その喜ばしい知らせのしるしとして、病や悪霊に苦しんでいる者を癒された。しかし、人々は理解しなかったし、ヨハネも理解しなかった。人々は自分の期待を込めたメシア像を作る。民衆は「貧しい暮らしから解放してくれるメシア」を求め、ユダヤ指導者は「占領者ローマから解放してくれるメシア」を求め、ヨハネは「悪に満ちた社会を裁き、正義と公平を実現されるメシア」を求めていた。
2.私につまずかない者は幸いである
・イエス自身もそのことを知っておられた故に言われる「私につまずかない人は幸いである」(11:6)。「つまずく」、原語「スカンダロン」、鳥や獣をとらえるための罠を指し、この言葉から英語「スキャンダル」が生まれている。イエスはユダヤ人にとって不浄とみなされた取税人や罪びとと食事を共にされた。触れてはいけないと禁止されていたらい病人に触れて彼を癒された。当時の人々が「罪びと」として排斥し、「不快だ」と思っていた人々にこそ、救いが必要だと判断され、行動された。人々はそのようなイエスにつまずいた。それは「スキャンダル」だと人々は思った。
・イエスが期待したような方でないことがわかると、民衆はイエスに失望し、離れて行く。イエスは次のように言われた。
-マタイ11:17「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった」。
・ヨハネが来て「罪を悔い改めよ」と言うと、人々は「ヨハネは人間の罪ばかりを見て、悔い改めよとしか言わない。彼は悪霊につかれている」と批判し(11:18)、イエスが来て「喜べ」と言うと、「断食もせず、罪びとと交わっている。大食漢の大酒飲みで、徴税人や罪びとの仲間だ」と受入れない(11:19)。イエスにつまずいた人々は、やがて「イエスを十字架につけろ」と叫び始める(27:22)。弟子たちもまたイエスにつまずく。イスカリオテのユダはイエス共同体の財政責任を担っていた人物だ。他の弟子たちと違って、イエスと同じユダ族の出身であり、学識もあり、おそらくイエスから最も信頼されていた。しかしユダは解放者メシアを求め、イエスが無力であることを見て、失望し、つまずいた。人々は自分の期待を込めたメシア像を抱く。人々にとってメシアとは、自分たちの願いをかなえてくれる人のことであった。イエスがそうでないことを知った時、ユダはつまずいた。ほかの弟子たちもつまずいた。だからイエスの十字架時には、弟子たちは皆逃げ去った。
3.つまずきを超えて
・人々はキリストにつまずいた。キリストが来ても何も変わらない。生活は良くならないし、ローマは相変わらずユダヤを占領支配し、世の不正や悪は治らない。「本当にこの人はメシアなのか」というつぶやきがそこに生まれる。このつまずきは私たちにもある。信じてバプテスマを受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもない。私たちも心のどこかで疑っている「この人は本当にメシア、救い主なのだろうか」、「この人に自分の人生を委ねても良いのだろうか」と。そのような私たちをイエスは招かれる。
-マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
・「だれでも私のもとに来なさい」との招きが、人々の心がイエスから離れ、最大の理解者であったヨハネさえもイエスにつまずいた後で為されたことに注目すべきだ。人間的にみれば、四面楚歌の中で、イエスは「重荷を負おう」と申し出られておられる。イエスが言われる「重荷」とは直接的には、「ファリサイ派の人々が課した律法の重荷」であろう。彼らはこまごまとした律法の解釈を人々に押し付け、守れない人を罪びとして世から排除していた。福音書を書いたマタイも徴税人として世から疎外されていた。その徴税人の自分にイエスは声をかけてくれた。マタイにとり、イエスは恩人である。しかしマタイを含めた弟子たちも、イエスの十字架時には、見捨てて逃げる。そこに「救われていない人間の本質」がある。
・イエスの十字架に照らされて、初めて、私たちは自分たちの罪が見える。人を愛そうとしても出来ないし、他者に尽くそうとしても出来ない。他者の痛みを理解することさえ出来ない。十字架を通して罪を知った弟子たちは、復活を通して赦しを知った。逃げ去った彼らの許に復活のイエスが来られ、宣教の業を委ねられた。弟子たちは悔い改め、赦しに涙し、生活は変えられていった。イエスの死後、弟子たちは「イエスは復活された。イエスこそメシアである。私たちはその証人だ。だから、あなたたちも悔い改めて、イエスの招きを受入れなさい」と説いた。
-使徒2:32-36「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです・・・だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
・ユダヤ当局者は彼らを捕らえ、鞭打つが、弟子たちは宣教を続けた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい」という言葉をイエス亡き後、弟子たちが代わりに担って行った。
-使徒4:23-31「二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った・・・『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。』祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。
・日本では労働力不足を補うための外国人技能研修性は受け入れるが、難民受け入れは一切拒否している。英米の難民認定率は30%前後であるが、日本の難民認定率は1%未満である(2019年日本での難民申請者10,375人、認定者44人)。難民を保護するのではなく、管理することに、日本の国策があるからだ。米国の2000年以降のノーベル賞受賞者は78名だが、そのうち31名が移民の出身である(ミチコ・カクタニ「真実の終わり」p66)。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい」というイエスの言葉に従いたいと願うのであれば、難民問題に取り組むことは教会の課題である。