江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年5月19日祈祷会(マタイ10:16-42、弟子たちへの迫害)

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  1. 迫害の予告

 

・イエスは弟子たちの中から十二人を選び出し、派遣される。しかし弟子たちが派遣される地は危険に満ちている。だからイエスは、「注意深くあれ」と語られる。

-マタイ10:16「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

・17節からイエスの弟子たちが受ける苦難が予告される。具体的には、イエス後の教会が直面した体制からの迫害の出来事が語られている。マタイの教会が迫害の中で聞いた復活のイエスの言葉である。

-マタイ10:17-18「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」。

・復活のイエスはマタイの教会に、「迫害された時、どう語るべきか」を教えられる。

-マタイ10:19-20「引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。その時には、言うべきことは教えられる。実は話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊である」。

・イエスは迫害の預言に続いて、さらに厳しい覚悟を弟子たちに迫られる。

-マタイ10:21-22「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶものは救われる」。

・しかし、イエスは殉教ではなく、危険を避けて避難することを勧められている。マタイ教会も、ユダヤ戦争の混乱を逃れて、北シリアに逃れ、その地でこの福音書を完成している。そしてイエスは「苦難はいつまでも続かない」と約束される。マタイの教会は苦難と迫害の中に放り込まれたが、「やがてイエスが再臨され、神の国はまもなく来る」との希望の中に生きていた。

-マタイ10:23b「あなたがたが、イスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」。

 

2.最後まで耐え忍ぶ者は救われる

 

・迫害の中にある教会へ、復活のイエスは、「人々を恐れるな」と語られる

-マタイ10:26-28「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。

・「二羽の雀は一アサリオンで売られているが、そんな雀の命さえ神は守っておられる。雀より勝っているあなたがたを、神が守らないはずはないではないか」と復活のイエスは語られる

-マタイ10:29-31「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

・イエスの弟子たちは迫害の中で、信仰の選択を迫られる。

-マタイ10:32-33「だから、だれでも人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う。」

・「弟子であるゆえに迫害が臨むがおじけるな」と語られる。注意すべきは、これらの言葉は生前のイエスが語られたのではなく、マタイの教会が祈りの中で聞いた言葉であるということだ。

-マタイ10:34-39「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来た。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に、こうして自分の家族が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また自分の十字架を担って私に従わない者は私にふさわしくない。自分に命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

・マタイは、「弟子たちにたった一杯の水を飲ませる、そんな小さな行いであっても、神は報いてくださる」とイエスは約束されたと語る。

-マタイ10:40-42「あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも、飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

・紀元80年ごろに書かれたマタイ福音書の教会は、現実にこのような迫害を体験している。マタイ教会はイエスの復活後(紀元30年)エルサレムで生まれ、十二弟子を中心にしたユダヤ人教会としてイエスの言葉記録(Q資料)を基に宣教を行い、次第に異邦人改宗者をも含めた共同体に成長して行く。しかし66-70年に起こったユダヤ戦争では、「剣を取るな」というイエスの言葉を守って参加せず、そのため同胞ユダヤ人たちから敵国ローマへの協力者として迫害を受け、ユダヤでの活動に挫折して、失意の中に北方シリアに逃れ、その地でマタイ福音書を編集したとみられている(須藤伊知郎「新約聖書解釈の手引き」P268-269)。

-マタイ26:52「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。

 

3.この物語を私たちはどう聞くか

 

・キリシタン時代のイエズス会は「殉教の勧め(マルチリヨノススメ)」を信徒に教えたが、その中の引用聖句は「体は殺しても、魂を殺すことにできない者どもを恐れるな」(マタイ10:28)であり、もう一つは「人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:33)という、まさに本日のマタイ福音書の言葉だ。尾西康充は語る「キリシタン時代の信徒たちは、ある意味で殉教を信仰的に強制された 」(「神の沈黙と人間の沈黙」、三重大学人文論集、2012年)。

・ただマタイ10章で注目すべきは、イエスご自身は殉教を勧めておられないことだ。「一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい」とイエスは語られる。説教者・由木康は語る「徳川時代のキリシタン迫害が残酷を極めた一因は、信徒に逃げよと教えなかったことだ。教職者は殉教の死を遂げても、信徒には逃れる道を与えるべきであった。信徒には、踏み絵を迫られたら、どんどん踏んで生きながらえ、心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきだった」。

-マタイ10:23a「一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい」。

・同志社大学・原誠の論文「戦時下の教会の伝道-教勢と入信者」(2002年3月)によれば、1942年の日本基督教団全教会の受洗者は年間5,929名だった。戦時下、国家による宗教統制は激しさを増し、ホーリネス教団や救世軍などに対する弾圧が起こり、国家がキリスト教を「敵性宗教」として疑心の目で見ていた時に6千名の洗礼者があった。戦後、信教の自由が保証され、だれでも自由に教会に行くことが出来るようになった1998 年の受洗者は1900名だった。受洗者数は三分の一以下に低下している、豊かさは信仰を生ぬるくするのではないか。

-ヨハネ黙示録3:15-16「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」。

・マタイの教会や戦時下の日本教会は迫害の中で目覚めざるを得なかった。そのことが伝道の起爆剤になった。矢内原忠雄は戦時下の1941年、彼の聖書雑誌「嘉信」の中で、卒業する若者たちへの言葉を書いている。いま改めて聞きたい言葉だ。

-矢内原忠雄「君たちを今の時勢において世に送るは、子羊を狼の中に入れるようなものだ。しかし、心配することはない。君たちが信仰に立つ限り、神は君たちの楯となり力となって下さる。自分がキリスト者たる立場を明白にせよ。その時、君たちはたちまち世の憎悪と冷笑とを受けるであろうが、それで君たちはイエスの弟子となるのである。その時態度をあいまいにするな。最初の闘いに勝って、その地点に信仰の旗を立てておけば、後の闘いは易いのである。隣人を愛せよ。殊に弱き者を助けよ。君たちの存在をして、弱き者には喜ばれ、おごる者には憎まれる者たらしめよ。されば行け。元気で。主の平安の中に」。

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