1.弟子の覚悟
・一人の律法学者がイエスの弟子になりたいと申し出た。
-マタイ8:19-20「そのときある律法学者が近づいて、『先生、あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります。』と言った。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』
・律法学者がイエスに従う申し出をした時、イエスは「私に従うならどんな犠牲もいとわない決心をしなさい。親の葬りができなくなる場合もある」と弟子の覚悟を促している。
-マタイ8:21-22「ほかに、弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』」
・「両親を敬え」と律法(十戒)が求める世界で、「親の葬儀に行くな」と戒めるのは大胆な発言だ。イエスが求めたのは、一時の感激から従う決心をすることではない。一時の感激は燃え尽きる炎のようにはかない。イエスの求めた弟子の覚悟は厳しいものであった。
-マタイ10:37-38「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。」
2.嵐を静める
・イエスはガリラヤ湖のほとりで人々を教えておられたが、夕方になり、人々を解散させ、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われた。弟子たちは舟を漕ぎ出し始めた。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波が激しくなった。
-マタイ8:24a「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」。
・マルコやルカは「突風」という言葉を用いるが、マタイは嵐=セイスモスという言葉を用いる。単なる突風ではなく、足元が揺れ動かされるような、大地震のような大きな揺れが起こったとマタイは報告する。ペテロやアンデレはガリラヤの漁師であり、湖の嵐には慣れているはずだが、その彼らでさえどうしようもないほどの激しい嵐が起こり、「舟は波にのまれそうに」なった。沈没して死ぬかもしれないという危機に襲われた。しかし、「イエスは眠っておられた」。
-マタイ8:24b-25「イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。おぼれそうです』と言った」。
・弟子たちは訴える「主よ、助けてください。おぼれそうです」。原文を直訳すると「主よ、救い給え、滅ぼされそうです」となる。並行箇所マルコでは「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4:38)とあり、ルカでは「先生、先生、おぼれそうです」(ルカ8:24)になっている。嵐の中で舟が沈みそうになっている状況下では、マルコやルカのように「先生、溺れそうです。助けてください」と叫ぶのが普通なのに、マタイでは「主よ、救い給え、滅ぼされそうです」という言葉に変えている。マルコやルカは伝承をそのまま物語っているのに対し、マタイは伝承を一部変えて、自分の教会へのメッセージとしているのであろう。イエスと弟子たちが湖で嵐にあったのは紀元30年頃、その話を伝承として継承したマタイが、50年後の紀元80年頃、自分たちの教会が置かれている状況の中で語り直している。マタイの教会はユダヤ教からの激しい迫害の中にあった(マタイ23:34「私は預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」)。教会の人々は迫害の嵐の前で怖れおののき、震えていた。その状況の中で、マタイは「主よ、救い給え、滅ぼされそうです」と叫んでいる。
・その叫びを聞いたイエスは、弟子たちに「何故怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われた。
-マタイ8:26a「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ』」。
・弟子たちはイエスの説教を聞き、その癒しの業を見て驚き、この人こそメシヤ、救い主だと思い、従ってきた。しかし、現実の困難に出会うとその信仰は吹き飛んでしまう。彼らに信仰がないわけではないが、その信仰は嵐の前では何の役にも立たないものだった。イエスは弟子たちを放置されなかった。
-マタイ8:26b「そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった」。
・叱る、エピティモーは、通常は悪霊=サタンを追い出す時に用いる。マタイは暴風雨の背後にはサタンがおり、イエスがサタンをお叱りになると、湖は静まったと表現している。自分たちを迫害するユダヤ教会の背後に悪霊=サタンがいても、イエスはかつてサタンを追い出された、だからユダヤ教会からの迫害に屈するな、私たちの教会(舟)にはこの天地を支配されるイエスが共におられるではないかと。初代教会は自分たちのシンボルとして、「舟」を用いていた。
-マタイ8:27「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った」。
・ここにマタイ特有の表現、「人々」が出てくる。並行箇所のマルコやルカは「弟子たちは驚いた」と記すが、マタイは「人々は驚いた」と伝承の一部を変えている。マタイは教会の会衆に対してこの言葉を語っている。「人々」、「此の話を聞いている人々」、教会の人々を指す。マタイの教会は迫害の中にあり、人々は恐れまどっていた。その人々が「主イエスは生きておられる、私たちと共におられる」、それを知った驚きをマタイは伝える。
3.悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす
・イエスはガリラヤ湖畔の町々、村々を訪れて宣教されていたが、ある日、「向こう岸に渡ろう」と言われて、舟で対岸の地に渡られた。ガリラヤ湖の対岸は異邦人の地であり、デカポリス(十の町)と呼ばれ、ゲラサ人(ギリシャ人)が住み、ローマ帝国の直轄領だった。ユダヤ人にとっては、異邦人の地、律法が不浄とみなす豚を飼っている汚れた地だった。イエスはそのゲラサの地で一人の男に出会われる。
-マタイ8:28「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」。
・当時の墓地は山や谷の洞窟を利用して造られていた。二人は精神の病のために自分や他人を傷つけ、家族も手に余って、二人を町外れの墓場に閉じ込めていた。二人は絶望のあまり、夜昼叫び、石で自分の体を傷つけていた。当時の人々は、このような状態を「汚れた霊に取りつかれた」と呼んでいた。
-マタイ8:29「突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか』」。
・イエスは悪霊たちに、「この男から出ていけ」と言われた。悪霊たちは「この地に留まらせてほしい、あそこにいる豚の群れの中に入らせて欲しい」と願う。やがて、悪霊たちが乗り移った豚は狂気に駆られて暴走し、豚の群れが湖に沈んで死んだとマタイは報告する。
-マタイ8:30-32「はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、『我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ』と願った。イエスが『行け』と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ」。
・グニルカは並行個所マルコ注解の中で、「マルコは悪霊の乗り移った豚が次々に溺れ死ぬという物語の結末を提供して、今は圧倒的な力で支配しているかに見えるローマの政治権力もイエスの支配の前に崩壊せざるを得ないと告げているのではないか」と理解した(EKK聖書注解)。
・豚の番をしていた豚飼いたちは驚いて、町の人々を呼びに行き、町の人々は自分たちの豚が湖に沈み、男が正気になっているのを見た。男が正気になったのは何の喜びでもなかった、既に棄てていた。しかし、豚は貴重な財産だった。ゲラサの人々にとって、イエスは自分たちの大事な財産を犠牲にしても一人の男を救おうとされた得体のしれない男、自分たちの日常を破壊する男、だから「出て行ってくれ」と言った。
-マタイ8:33-34「豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」。
・ドストエフスキーは、組織の結束を図るため転向者を殺害した「ネチャーエフ事件」を素材に、小説「悪霊」を書いた。ルカ8:32-36(マルコ5:32-39、マタイ8:28-34の並行箇所)が小説の冒頭に出てくる。悪霊にとりつかれて湖に飛びこみ溺死したという豚の群さながらに、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織した青年たちは、革命を企てながら自らを滅ぼして行く。人民寺院のジム・ジョーンズは信徒数百名を連れて集団自殺し、オウム真理教・麻原彰晃は組織を防衛するために無差別大量殺人を行った。人をより効率的に殺すためのクラスター爆弾や劣化ウラン弾を開発し用いる人も、また悪霊にとりつかれている。マルコやマタイの描く世界、ドストエフスキーの小説の世界は現在の物語だ。