- 追放された地での嘆きの歌
・リビング・プレイズ69番「鹿のように」は、良く歌われる賛美歌だ。その賛美歌は詩編42編から生まれた。
-リビング・プレイズ69番「谷川の流れを慕う 鹿のように、主よ わがたましい あなたを慕う、あなたこそ わがたて あなたこそ わが力、あなたこそ わがのぞみ われは 主を仰ぐ」。
・詩人は歌う「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます」(新改訳42:1)。イスラエルでは乾季には川の流れは地下に潜り、地の表は水無川になる。その渇いた土地に鹿は水を求めてさまよう。詩人は、かつては祭司としてエルサレム神殿で民を先導して歩いていたのに、今は神殿を追われ、異郷の地にいる。彼は鹿が水を求めるようにエルサレムを望郷する。
-詩篇42:2-3「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」。
・詩篇42編には、悲嘆の言葉が繰り返し用いられ(「なぜうなだれるのか、私の魂よ」42:6,42:12,43:5)、叶わぬ願い「エルサレム神殿に戻ることができるのはいつか」が繰り返し歌われている(42:10,43:2)。この詩篇はエルサレムを追放された祭司がエルサレムへの帰還を願う歌なのだ。「涸れた谷に鹿が水を求めるように」、詩人は水の枯渇する夏の川床をさまよう鹿に自らの状況を重ね合わせている。なお42編但し書きには「コラの子の詩」とある。
-詩篇42:1「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩」。
・コラ一族は神殿の門衛ならびに詠唱者としての務めを果たしていたが(歴代誌上9:19)、ある時期から、神殿の祭司職はアロンの子孫だけに限定され、コラ一族はエルサレム神殿から追放されている。詩篇42-43編は追放されたコラの子孫たちが、エルサレム神殿を慕って歌った詩だ。「お前の神はどこにいる」、「お前は神の宮から追放されたではないか」と人々は詩人をあざける。
-詩編42:4-5「昼も夜も、私の糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う『お前の神はどこにいる』と。私は魂を注ぎ出し、思い起こす、喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」。
・彼は崩れ落ちる自己の魂に語りかける「うなだれるな、私の魂よ、神を待ち望めと」。魂=ネフェシュ、息、人は神の霊を受けて生きるものになるが、霊が取り去られると彼は死ぬ。
-詩篇42:6「なぜうなだれるのか、私の魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、告白しよう『御顔こそ、私の救い』と」。
・前半で水の枯渇する夏の川床をさまよう鹿に自らの状況を重ね合わせた詩人は、後半では雨期に同じ場所を下り落ちる激流を自らの状況に重ね合わせる。激流がヘルモン山からヨルダン渓谷に流れ落ちるように、詩人もまた失意の底に落とされた。ヘルモンとミザルの山のあたり(ガリラヤ北部の辺境の地)が詩人の追放された地であるのだろう。
-詩篇42:7-8「私の神よ。私の魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から、あなたの注ぐ激流のとどろきに応えて、深淵は深淵に呼ばわり、砕け散るあなたの波は私を越えて行く」。
・「神は私をお忘れになったのか」、異郷の地にある詩人は、敵のあざけりと失意の中で、激しく神を求める。
-詩篇42:10-11「私の岩、私の神に言おう『なぜ、私をお忘れになったのか。なぜ、私は敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか』。私を苦しめる者は私の骨を砕き、絶え間なく嘲って言う、『お前の神はどこにいる』と」。
・この詩篇が左遷されて遠い地に流された詩人の望郷の歌とすれば、菅原道真の心境と類似して来るのかもしれない。道真は都を慕って歌を残した。
-菅原道真「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
2.苦難の中で会って下さる神
・詩篇43編も42編に続く。両詩は元来一体の詩である。詩人は自分を聖所から追放した神に対して、「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのか」と叫ぶ。
-詩篇43:1-2「神よ、あなたの裁きを望みます。私に代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者、よこしまな者から救ってください。あなたは私の神、私の砦。なぜ、私を見放されたのか。なぜ、私は敵に虐げられ、嘆きつつ行き来するのか。あなたの光とまことを遣わしてください」。
・詩人はエルサレムへの帰還を待ちわびる。彼にとって神とは聖なる山、シオン(エルサレム)におられる方だ。
-詩篇43:3-4「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らは私を導き、聖なる山、あなたのいます所に、私を伴ってくれるでしょう。神の祭壇に私は近づき、私の神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、私の神よ」。
・旧約の人々にとってエルサレム以外の場所は聖所ではなかった。しかし、イエスはサマリヤの女に言われた「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)。新約に生きる私たちはどこにいても神を礼拝することができる幸いを持つ。しかし限界を持つ人間にはやはり特定の場所が必要だ。海外に長く暮した姉妹は告白する「主の兄弟姉妹との交わりはあっても、御言葉に飢えた」。
-姉妹の信仰告白から「1996年に今の主人と結婚しました。彼は海外勤務が多く、最初の赴任場所は、中央アフリカ共和国というアフリカの奥地でした・・・それからケニアに2年、ガーナと、アフリカばかりの海外転勤についていきました。ケニアに住んでいた時は現地の教会に行き、信仰の友にも出会え、国籍や言葉が違っても同じ信仰を持っている幸いも体験しました。しかし、日本語ではない礼拝や説教では十分わからず、御言葉に飢えました。日本から礼拝テープを送ってもらい、乾いたスポンジが水を吸うように聞き入りました」。
・この詩の特色は同じ言葉「何故うなだれるのか、神を待ち望め」が繰り返し歌われるところにある。詩人は神に一縷の望みをいただいて叫んでいる。
-詩篇42:6「なぜうなだれるのか、私の魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、告白しよう、『御顔こそ、私の救い』と。
-詩篇42:12「なぜうなだれるのか、私の魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、告白しよう、『御顔こそ、私の救い』と。私の神よ」。
-詩篇43:5「なぜうなだれるのか、私の魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、告白しよう、『御顔こそ、私の救い』と。私の神よ」。
・「神は必ず答えて下さる」と私たちは信じる。なぜなら信仰者は失意の時こそ、神が一番近くにおられることを知るからだ。
-ヨブ記36:15-16「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ」。