江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年2月25日祈祷会(詩編41編、憐れみ深い人は幸いである)

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  • 人から忌み嫌われる病に冒されて

 

・詩篇第一部は詩篇1編で始まり、41編で終わる。第一部は「いかに幸いなことか」(1:1)で始まり、「いかに幸いなことか』(41:2)で終わる。詩篇は本来的に讃美の歌なのである。

-詩篇41:2「いかに幸いなことでしょう、弱い者に思いやりのある人は。災いのふりかかる時、主はその人を逃れさせてくださいます」。

・箴言にも同じ趣旨の言葉がある。

-箴言14:21「隣り人を卑しめる者は罪びとである、貧しい人をあわれむ者はさいわいである」(口語訳)。

・「弱い者に思いやりのある人」とは、「貧しい者を顧みる人」(口語訳)、「弱っている者に心配る人」(新改訳)の意味であろう。イエスの山上の説教で語られた「憐れみ深い人は幸いである」と同じ意味であろう。

-マタイ5:7「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」。

・弱肉強食の社会において、弱者は容赦なく踏みにじられていく。これに反し、神の支配する社会は憐れみにより支えられている。神を信じる者は神の憐れみにあずかり、自分もこの世の弱者に心を寄せる者となり、そのような者は幸いだと詩人は歌う。

-詩篇41:3-4 「主よ、その人を守って命を得させ、この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。主よ、その人が病の床にある時、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください」。

・人が憐れみを知るためには、彼もまた苦難の中に苦しみ、そこで神と出会わなければいけない。神の憐れみを知る者だけが、人に憐れみ深い者となりうる。詩人もかつて重い病に罹り、「早く死ね」、「神に呪われたから病気になった」と言われたことがあった。

-詩篇41:5-9「私は申します『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯した私を癒してください』。敵は私を苦しめようとして言います『早く死んでその名も消えうせるがよい』。見舞いに来れば、むなしいことを言いますが、心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。私を憎む者は皆、集まってささやき、私に災いを謀っています『呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい』」。

・人々は彼の病苦を忌避し、呪われた者と攻撃した。彼を見舞うのは死に定められた彼の病状を確認するためであり、人々は呪われた者の破滅を病者に見ようとする。古代、そのように呪われた病はらい病であった。

-レビ記(口語訳)13:45-46「らい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。その住まいは宿営の外でなければならない」。

 

2.病からの救済を通して出る感謝の歌

 

・以前は親しかった者も彼の病を忌み嫌って遠ざかり、嘲笑する。

-詩篇41:10「私の信頼していた仲間、私のパンを食べる者が、威張って私を足げにします」。

・信頼していた者に裏切られる悲しみはいかほどであろう。イエスもユダに裏切られることを通して、その悲しみを知られたとヨハネは詩篇41:10を引用して記す。

-ヨハネ13:18-21「私は、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、私のパンを食べている者が、私に逆らったという聖書の言葉は実現しなければならない・・・イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている』」。

・詩人は病からの救済を主に願った。彼の病が呪いではなく、彼は主の祝福の中にあることを敵に知らせるためにで、ある。信仰者であっても、人は自己愛や他者への報復感情から逃れることはできない。

-詩篇41:11-13「主よ、どうか私を憐れみ再び私を起き上がらせてください。そうしてくだされば彼らを見返すことができます。そして私は知るでしょう、私はあなたの御旨にかなうのだと、敵が私に対して勝ち誇ることはないと。どうか、無垢な私を支え、とこしえに、御前に立たせてください」。

・14節は編集者より挿入された締めくくりの言葉であろう。

-詩篇41:14「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン」。

 

3.この生きづらい世にあってどう生きるか

 

・日本社会は「同調圧力」が強い。この同調圧力が「世間」として人を追いつめ、告発する。順調な時には社会はその人を称賛するが、一旦逆境になれば手の平を返したように、彼を攻撃する。鈴木正久はかつて数百人が集う本郷中央教会の牧師であったが、太平洋戦争の激化と共に、信徒が教会から離れていく悲哀を経験した。

-鈴木正久説教(1961/4/30)「太平洋戦争が始まると、礼拝に集まる者は30人、20人と少なくなり、最後は7~8人に減ってしまった。それのみならず、ある時、長老の一人が『非常時に(敵性宗教であるキリスト教の礼拝を続けることは)国策に沿わないと反対さえした』」。

・戦前ホーリネス教会は宗教弾圧を受けた。辻啓蔵牧師は弘前住吉教会牧師であったが、1942年に治安維持法違反で捕らえられ、教会は解散を命令される。教会が解散させられると、涙を流して祈っていた信徒たちはどこへともなく散って行き、辻一家に近寄る者はなく、一家は生計の道を絶たれ、5人の子供を抱えて啓蔵氏の妻は途方に暮れる。長男の宣道氏はカボチャを分けて貰うため、教会員の農家を訪ねるが、門前払いをされた「おたくに分けてやるカボチャはない」。かつては真っ先に証しを語り、信徒全体から尊敬を集めていた熱心な教会役員の言葉であった。辻啓蔵牧師は2年半の収監の後、1945年1月18日、青森刑務所で獄死する(「嵐の中の牧師たち~ホーリネス弾圧と私たち」)。長男の辻宣道氏はやがて牧師になり、最初は焼津で、次に静岡で伝道を続けるが、彼の教会形成の基本は、「生涯信仰を捨てない人をつくる」ことだった。

・人に裏切られた悲しみを知る者だけが、本当に人を憐れむことができる。かつて神によって憐れまれた体験をしたからだ。だから悲しむ者は幸いなのだ。悲しみを通して、人は主に出会う。

-マタイ5:3-5「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。

・どのような困難の中にあっても神は共にいて下さり、私たちを憐れんで下さる。詩人もつらい時を過ごしたゆえに、そのように言いきることができる。悲しみは時には人を殺し、また人に命を与える。悲しみや苦難を神の御旨と受け止めた時、命が生まれる。

-第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。

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