江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年7月26日説教(コヘレト2:1-18、生かされている今を生きる)

投稿日:2015年7月26日 更新日:

2015年7月26日説教(コヘレト2:1-18、生かされている今を生きる)

 

1.すべては空しいと繰り返すコヘレト

 

・コヘレト書を読み続けています。先週、学びましたように、コヘレト書を貫く中心の言葉はヘブル語へベル=空、空しいであり、全12章の短い文章の中に33回も用いられています。コヘレトは冒頭に書きます「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1:2)。その空しさを紛らわせるために彼は欲望のままに生きてみようと試みました。しかし快楽をいくら求めても人生の喜びは得られなかったと彼は告白します「私はこうつぶやいた。『快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう』。見よ、それすらも空しかった。笑いに対しては、狂気だと言い、快楽に対しては、何になろうと言った」(2:1-2)。また空しさを紛らわせようと酒に溺れたこともありましたが、それも空しかったと彼は言います「私の心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなおこの天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた」(2:3)。

・彼はソロモン王の栄華を再現しようともしました。大邸宅に住み、畑にぶどうを植え、多くの奴隷を持ち、金銀を蓄え、多くの側女も手に入れ、栄華の限りを尽くしてみました。「大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ、さまざまの果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて、私の家で生まれる奴隷もあり、かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ、人の子らの喜びとする多くの側女を置いた」(2:4-8)。富と名声を手に入れたが「どれも空しかった」と彼は嘆息します。「かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、私は大いなるものとなり、栄えたが、なお、知恵は私のもとにとどまっていた。目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をも私の心は楽しんだ。それが、労苦から私が得た分であった。しかし、私は顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」(2:9-11)。酒も金も異性も空しかった。快楽は人を幸福にはしないとコヘレトは語ります。

・地上の人生の成功の意味は何なのでしょうか。スティーブ・ジョブズはアップル社を創業し、成功し、会社は株式時価総額で世界一になりましたが、彼自身はすい臓がんのために56歳で亡くなっています。彼は生前このように語っています「墓場で一番の金持ちになるなんて何の意味がある。今日は最高だったといって眠りにつく。私にはこっちのほうが重要なのだ」。人間は死ねばすべてが終わりになるのでしょうか。そうであれば、コヘレトの言うように、この世は空しい、生きることもけだるいという事になります。

 

  1. 人はみな死ななければならない

 

・物質の空しさに気づいたコヘレトは、精神の充実を、知恵を求めました。しかし彼は言います「愚者に起きることは自分にも起きる。賢者も愚者も等しく死ぬ。死ねば全て終わりなのだ」と。そうであれば、この世で知恵を求める意味はどこにあるのかとコヘレトは反問します。「また、私は顧みて、知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした・・・私の見たところでは、光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかし私は知っている、両者に同じことが起こるのだということを。私はこうつぶやいた『愚者に起こることは、私にも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ』。これまた空しい、と私は思った」。(2:12-15)。

・人は死から逃れることは出来ません。その中で、人は後世に自分の名を残したいと願います。業績を挙げて自分の名を冠した事業を残す、寄付をして自分の名を残す、多くの人がそのために努力します。しかしコヘレトは語ります「賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。私は生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ」(2:16)。

・またコヘレトは財産を子孫に残すことを通して、自分の労苦の結果を残したいと考えました。しかし、世の相続人の姿を見れば、それも空しいと考えざるを得ません。多くの相続人たちが残された財産を浪費し、それらがなくなっていくという現実を見ているのです。栄華を極めたソロモンの王国も、後継者レハベアムが愚かだった故に国は南北に分裂し、やがて北王国はアッシリアに、南王国はバビロンに滅ぼされていきます。だから彼は語ります「太陽の下でしたこの労苦の結果を、私はすべていとう。後を継ぐ者に残すだけ、なのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下で私が知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。太陽の下、労苦してきたことのすべてに、私の心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」(2:18-22)。

 

  1. 残された時間を最大限に生きよ

 

・伝統的な信仰は語ります「神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる」(箴言4:18)。しかし、コヘレトは人生に神の摂理を見出すことが出来ません。だから彼は語ります「私は生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ」(2:17)。しかしそのコヘレトが唯一人生の意味を見出す時があります。それは与えられたものを感謝して受け取る時です。彼は語ります「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、私の見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ」(2:24-25)。「現在を大事に生きる」、「生かされている命を生きる」、そのことにこそ意味があるのではないかとコヘレトは考え始めています。

・今日の招詞にルカ12:27-28を選びました。次のような言葉です「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」。「生かされている命の喜び」を、イエスが語られた言葉です。コヘレトはソロモンの栄華を求めて、それを手に入れましたが、それも「空しい」ことに気づきました。しかし神は「明日は炉に投げ込まれる草でさえ」装って下さる、ましてや神は私たちに良いものを与えようとしておられることに、コヘレトは気づいたのです。

・人は死を知るゆえに現在を大事に生きることができます。「あたりまえ」という詩を書いた井村和清氏は1979年32歳で癌のためにこの世を去りました。「あたりまえ」という詩は彼が家族へ残した手記の中にありました。「あたりまえ、こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう。あたりまえであることを。お父さんがいる、お母さんがいる 、手が二本あって、足が二本ある、行きたい所へ自分で歩いていける、手を伸ばせば何でもとれる、音が聴こえて声が出る、こんな幸せなことがあるのでしょうか 。しかし、誰もそれを喜ばない、あたりまえだ、と笑ってすます。食事が食べられる、夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる、空気を胸一杯に吸える、笑える、泣ける、叫ぶことも出来る、走りまわれる、みんなあたりまえのこと、こんなすばらしいことを、みんなは決して喜ばない。そのありがたさを知っているのは、 それを失った人たちだけ、何故でしょう、あたりまえ」(井村和清、「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」から)。死を知るからこそ、生きることの素晴らしさを彼は気づいたのです。

・先に挙げたスティーブ・ジョブズは2005年6月にスタンフォード大学卒業式でスピーチをします。2年前の2003年に膵臓癌が見つかり、その時は死を覚悟しましたが、幸いにも手術で取り除くことが出来た後の言葉です「私は17歳の時、こんな言葉を本で読みました。『毎日を人生最後の日だと思って生きてみなさい。そうすればいつかあなたが正しいとわかるはずです』。それから33年間毎朝私は鏡に映る自分に問いかけてきました。『もし今日が自分の人生最後の日だとしたら今日やる予定のことを私は本当にやりたいことだろうか』。それに対する答えが「ノー」の日が何日も続くと私は『何かを変える必要がある』と自覚するわけです。自分がもうすぐ死ぬ状況を想像することは最も大切な方法です。私は人生で大きな決断をするときに随分と助けられてきました。なぜなら、他人からの期待、自分のプライド、失敗への恐れなど、ほとんど全てのものは死に直面すれば吹き飛んでしまう程度のもので、そこに残るものだけが本当に大切なことなのです」。彼は根治したはずの癌が転移して2011年に亡くなります。彼は死について次のように述べます「死は多分、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手、古いものを取り去り、新しいものを生み出す」。自分が生かされていることを知った2003年以降、後世に残るi-phoneやi-padを次々に世に送り出します。

・スティーブ・ジョブズはスピーチの最後で述べます「あなたがたの時間は限られています。だから本意ではない人生を生きて、時間を無駄にしないようにしてください。ハングリーであれ、愚かであれ」。私たちには将来のことはわかりません。いつかは死にますが、それがいつかは知らない。その中で今なすべきことを為していく、そのような生き方が求められているのではないでしょうか。宗教改革者ルターは語りました「たとえ、明日、世の終わりが来ようとも、私はリンゴの木を植えよう」。このような生き方をコヘレトは私たちに提示するのです。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.