2016年10月16日説教(コロサイ書3:1-17、仕える生活)
1.旧い衣を脱ぎ捨てよ
・コロサイ書を読み続けています。コロサイ書はパウロがコロサイ教会にあてて書いた手紙です。コロサイ教会の中にパウロが教えたのとは異なる福音が侵入し、教会が混乱し、それを正すためにパウロは手紙を書きます。コロサイ教会の一部の人々は、「禁欲すれば清められる、善行を積めば天国に行ける、苦行すれば救われる」と語っていたようです。人は「恵みによって救われる」と教えられても、それだけでは不安で、断食をし、苦行をし、禁欲して救いを確保したいと思います。しかし、パウロは「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」(2:23)と語ります。戒律を守ることから生まれるのは自己満足であり、それは信仰ではないと言うのです。
・信仰とはイエス・キリストに結ばれることです。パウロは語ります「(あなたがたは) 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」(2:12-13)。だから「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(3:1)と語ります。
・3章以下では、キリスト者の日常生活に関する勧めが、述べられていますが、基本にあるのは、キリスト者とは、「キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活して新しい存在になった」という認識です。人は洗礼(バプテスマ)を受けて、キリスト者となります。水に入れられて死に、水から引き出されて新しく生きる。その結果、キリスト者はこの地上で生活しながら、すでに国籍は天に移された存在になります。「私たちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)からです。
・キリスト者はこの世では寄留者として生きます。その生き方をコロサイ書は語ります「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(3:3)。これまで私たちは、復活とは「死後に復活して永遠の命に生きる」と考えていました。しかしコロサイ書ではさらに一歩を深めて「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」、つまり私たちは今「復活の命を生きている。その命はまだ隠されているから見えないが、確かに与えられている」と語るのです。
・しかし現実には肉の体をもってこの地上に生きていますので、肉の欲望、罪の力が押し寄せてきます。パウロは、地上の身体である古い衣を脱ぎ捨てなさいと語ります。「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい・・・あなたがたも、以前このようなことの中にいた時には、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」(3:5-8)。
2.新しい衣を着る
・私たちは洗礼によって新しく生まれ変わりました。しかし、依然として、不品行や汚れた行いを招く情欲や悪欲がなお私たちの内に残されています。その典型が私たちの言葉の中に現れます。主の兄弟ヤコブは舌について警告します。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」(ヤコブ3:8-10)。私たちは舌で神を讃美しながら、同じ舌で人を呪う存在なのです。ここに私たちの原罪があります。
・しかしパウロは私たちに、「キリストの十字架によってあなたたちの罪は十字架に釘付けにされた」と告げます。「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(2:13-14)。そこから、私たちの聖化が始まります。だから「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(3:9-10)と語られます。
・パウロは続けます「あなたがたは旧い自分に死に、新しいものとされたのだから、新しい衣を着なさい。新しい着物を着た時には、もはや『そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです』」(3:11)。この世の地位や身分の区別はそこでは消えます。何故ならば「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」からです。
3.従う生活
・では新しい衣を着た生き方とはどのようなものでしょうか。パウロはコロサイ書3章後半で、その生き方を私たちに提示します。今日の招詞にコロサイ3:18-19を選びました。次のような言葉です「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」。コロサイ書では「妻は夫に仕えなさい」、「子は親に従いなさい」、「奴隷は主人に従いなさい」と説かれます。ある人は語ります「パウロはキリストにあっては男も女もなく、奴隷も自由人もないと教えたのに、ここでは逆のことを教える。パウロでさえ、世の慣習、制度から自由でなかったのか」。別の人は言います「ここには弱者の従属が説かれている、この従属規定のために、古代・中世は暗黒の時代だった。近代はこの従属から解放され、自由・平等・博愛の理想を求めた所から始まった」。ここで説かれている家庭訓は古い教え、家父長的倫理で、男女の平等・親子の人格的尊重の説かれる現代では聞く価値がないのでしょうか。
・18-19節では妻たちに対して「夫に仕えるように」命じられています。それは単に「夫に仕えよ」と言われているのではなく「主を信じる者にふさわしく」夫に仕えよと言われています。ギリシア語「エン・キュリオー=主において」です。キリストに従うように夫に従いなさい、信仰の行為として夫に仕えなさいと言われています。同じ言葉が夫にも向けられます「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(3:19)。古代において「妻は夫に従え」という教えはあり、夫に対しては「妻を治めよ」との勧告はありました。しかし、夫に対して「妻を愛せよ」という教えはありませんでした。当時、妻は夫の隷属物であり、愛する存在ではなかったからです。従って、「妻を愛せ、つらく当たってはいけない」と夫に呼びかけられていることは、革命的な教えでした。
・次に子どもに対して「親に従いなさい」と説かれますが、親に対しても「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(3:21)と語られています。親に対して子の人格を尊重せよと語られています。最後に、奴隷は「肉による主人に従いなさい」と言われています。当時は奴隷制社会であり、パウロは奴隷制を当然のものとして受け入れることを求めているのでしょうか。そうではないことが先を読めばわかります。そこには「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知っての通り、あなたがたにも主人が天におられるのです」(4:1)とあります。奴隷が主人に従うことを定めた掟は多くありますが、主人に対して「奴隷を正しく、公平に扱うように」求めた文書は聖書以外ありません。奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままでした。しかし、パウロは主人に言います「あなたがたはそうではあってはならない。あなたがたにも主人が天におられる」ではないかと語ります。当時の世界で、主人に対して、このような戒めを送ったのは、異例なことです。
・パウロは何故、子どもや妻や奴隷に従属を勧めるのでしょうか。それは従属する以外に、彼らの生きる道がなかったからです。子どもは養ってくれる親なしでは生きることは出来なかった。妻の経済的自立のない当時においては、妻は夫に従うしか生きる道はなかった。奴隷もまた主人に養われる以外の生存はなかった。他に選択肢がない状況下であれば、それを神が与えて下さった道として、積極的に選び取って行きなさいとここで言われています。これは諦めの教えではありません。奴隷の身分から解放される機会があればその機会を生かせ、しかし奴隷であることを不当として主人の下から逃走し、一生を逃げ隠れてして送ることが神の御心ではない事を知れと語られているのです。無慈悲な主人、不信仰の夫、かたくなな父、このような現実から目をそむけるな。現実に立ち向かえ、現実を神が与えて下さった導きとして積極的に従って行け。これこそキリストが為されたことであり、あなた方が従う道なのだといわれています。何故ならば「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝する」(3:17)ことがキリスト者の姿だからです。
・ここにおいて、従属の意味が明らかになってきます。現在の境遇は神が与えてくれたものであり、それに不満を言い、一時逃れの行為をしても、そこからは何も生まれない。むしろ、与えてくれた夫、与えてくれた父、与えてくれた主人を敬い、仕えることを通して、道が開かれて来る。ここに「支配と従属」に代わる新しい掟、積極的従属の道が示されます。ここにイエスが語られた言葉の具体化があります「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43-44)。パウロは語ります「現在の苦しみを忘れるために霊の力を借り、神秘を求めても仕方がないのだ。現在の与えられた境遇の中で、何が神の御心であるかを求めていくのが、足が地に付いたキリスト者の生き方ではないか」。
・最後にアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの「平静についての祈り」を聞きます。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。教会形成も同じです。人が足りない、お金が足りない、設備が足りないと歎くより、今与えられている中で何が出来るのかを求める。不足や困難が与えられているとすれば、それを通して神が私たちをどこへ導こうとされているかを祈り求める。そこに道が開かれる。聖書は私たちにそう教えます。