江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年10月23日説教(コロサイ書4:2-17、祈りの輪の中で生きる)

投稿日:2016年10月23日 更新日:

2016年10月23日説教(コロサイ書4:2-17、祈りの輪の中で生きる)

 

1.パウロの最後の勧め

 

・コロサイ書を読み続けてきました。今日が最終回です。コロサイ教会を創立したエパフロスはエペソの獄にパウロを訪ね、教会が異なる福音に惑わされ、混乱しているゆえに教会に宛てて手紙を書いてほしいと願います。パウロはコロサイの人々の為に祈りながら、この手紙を書いています。彼は語ります「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」(1:3)。同時にパウロはコロサイの人々にも、自分たちのために祈って欲しいと伝えます「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時に私たちのためにも祈ってください」(4:2-3a)。祈りの基本は相手のためのとりなしです。共に祈りあう、そこに祈りに結ばれた交わりが成立します。祈りの内容は「神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」(4:3b)です。最初期のローマ世界ではキリストの教えは邪教とされ、そのためパウロは「牢につながれています」。獄中でパウロは「福音=キリストの秘められた計画」を語り続け、そのために「コロサイの人々の祈りと励ましを必要としている」(4:4)と述べます。

・「キリストの秘められた計画」(原語ミュステリオン、奥義)とは、「今まで隠されていたものが、今明らかにされる」ことです。具体的には「神は・・・満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て・・・万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(1:19-20)という奥義です。この真理は理性で理解できるものではなく、ただ信仰の体験によってのみ知ることが出来ます。それ故に「奥義、ミュステリオン」なのです。

・キリスト信仰において、祈りほど大切なものはありません。弱い私たちが世の荒海の中でキリストを証しするには、祈りが欠かせないのです。その祈りを歌った代表的な讃美歌が431番「いつくしみ深き」です。讃美歌の日本語歌詞ではイエスのやさしさが強調されていますが(いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたもう)、原語の英文歌詞では「祈り」が主題となります。原文を逐語訳すれば次のようになります「イエスは何と素晴らしい友でしょうか。私たちのすべての罪と悩みを負ってくださるとは・・・私たちは平安を受けそこない、無駄に心を痛めています。すべてのことを神に告げる祈りをしないからです」。二番直訳では「試練や誘惑に会っている時、困難がある時、失望してはいけません。主に祈りなさい・・・イエスは私たちの弱さを全部ご存知です。主に祈りなさい」。すべての悩み、苦しみを主の前にさらけ出す、それが祈りです。今、中学生や高校生がいじめにあい、自殺したり相手を殺傷したりしています。悩みや苦しみを語る友がいないからです。その時この讃美歌は歌います「友に軽蔑され、捨てられた時、主に祈りなさい。主はその御腕にあなたを抱き、あなたを守ってくださいます」(三番)と。クリストフ・ティートゲという詩人は語りました「喜びを人に分かつとそれは二倍になり、苦しみを人に分かつとそれは半分になる。」。自分の苦しみを分かち合う方がおられる、それを知ることが祈りの力です。

・牧会者は信徒のために祈り、信徒は牧会者に為に祈ります。この時、教会は一つになり、一つになった教会は、教会の外にいる人々への伝道を始めます。パウロは語ります「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(4:5-6)。伝道は教会の外にいる人々に、「キリストの奥義」を伝えるために為されますが、その時、「塩で味付けされた言葉」を語るように勧められています。塩は素材の味を際立たせる役割をします。私たちは自分の言葉の貧しさに臆病になる必要はありません。何故ならば、キリストと共に死に、キリストによって生かされている私たちの人生は、すでに「十字架を負ってキリストに従う」という塩で味付けされているからです。私たちが「塩で味付けされた」福音を語れば、その言葉は相手に届きます。

 

2.祈りの輪の中にある教会

 

・福音がどのように素晴らしい働きをするのかの実際を、私たちは4章7節以降で見ることが出来ます。ここには手紙に関係する人たちの動向が記してあります。パウロはエフェソの獄中にいますが、多くの人々がパウロと協同して働いています。パウロの弟子ティキコは手紙を持ってコロサイの人々を訪問します。当時の手紙は人の手によって持ち運びされました。「私の様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです」(4:7-8)。手紙の持参人は書いた人の心を伝える生きた伝達者です。

・ティキコはオネシモを同行します(4:9)。オネシモはコロサイ教会の信徒フィレモンの元から逃げ出した逃亡奴隷です。先にパウロはフィレモンに対し、オネシモを執り成す手紙(フィレモン書)を書き、その中でオネシモを「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として・・・迎え入れて下さい」と頼み(フィレモン1:16-20)、フィレモンはそれに応えてオネシモを奴隷から解放し、今彼はパウロの使いとして再びコロサイに赴こうとしています。キリストにある愛の行為が、逃亡奴隷であった一人の人間を死から蘇らせたのです。

・アリスタルコとマルコもパウロの下で共に伝道のために働いています。「私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています」(4:10)。マルコはマルコ福音書を書いたマルコですが、かつてパウロを裏切った人でした。使徒言行録は記します「パウロはバルナバに言った。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。』バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになった」(使徒15:36-39)。かつては弱さの故にパウロの期待を裏切ったマルコが、今はパウロの愛弟子になっています。信仰上の仲違いが見事に修復されています。

・コロサイ教会の設立者エパフラスも、今はパウロの下でコロサイの人々のために祈っています。「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」(4:12)。そこには「愛する医者ルカ」も、「デマス」もいます。ルカは福音書を著し、使徒行伝を書いたあのルカです。ルカは生涯パウロに仕えましたが、デマスはやがて教会から離れていったようです (第二テモテ4:9-11)。また何より忘れていけない人は、この手紙の共著者テモテです(1:1)。この手紙は、おそらくテモテが執筆し、パウロが署名したと思われます(4:18)。パウロもテモテもこの手紙がやがて聖書に一部となり、世界中の信徒に読まれることは夢にも思わなかったことでしょう。それを可能にしたのは解放奴隷オネシモが後にエフェソ監督になり、自分を救ってくれたパウロの書簡を集めてそれを公開したからです。

・パウロは獄にとらわれていますが、孤独ではありません。多くの人が共同して福音のために働いています。その多くの人の願いがこの手紙を2000年後の異郷に住む私たちに伝えました。私たちは小さな群れですが、パウロやオネシモの働きに支えられています。教会から離れていく人もいますが、最後まで教会のために働く人もいます。教会は多くの人々の祈りの輪の中にあります。そして何より「私はあなたと共にいる」と約束された主キリストが教会におられます(マタイ28:20)。だから讃美歌作者は「イエスは何と素晴らしい友でしょうか。私たちのすべての罪と悩みを負って下さるとは」と讃美するのです。

 

3.教会に連なることの意味

 

・今日の招詞に使徒言行録2:42を選びました。次のような言葉です。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。使徒の教えとは使徒たちの説教、主イエス・キリストの十字架と復活についての証言です。初代教会は、説教を聴くことから教会形成を始めました。この説教に促されて、彼らは兄弟姉妹への交わりへと入りました。それは「互いに愛し合う」(ヨハネ15:12)という交わりです。キリスト者になるとは、愛し合う関係を他者と構築することです。この愛し合いが「相互の交わり」として、表現されています。また交わりを示すギリシア語コイノニアには同時に「分かちあう」という意味があります。交わりとは単に親しくなることではなく、分かち合うことです。一つのパンが手元にあれば、それを二つに分けて一緒に食べることが交わりです。

・その交わりの中心になったのが「パン裂き」で、食物を持ち寄って共に食べるという食卓の交わりです。そして「祈ることに熱心であった」、この祈りは個人の祈りというよりは共同の祈りです。初代教会の人々は毎日集まり、礼拝を捧げ、食卓を共にし、兄弟姉妹へのとりなしを祈りました。このような活動を通して、彼らは一つになっていきました。現代の私たちは忙しく、週1日、多くて週2日しか、共に集まることが出来ません。それだけに、主日礼拝と水曜日、木曜日の祈祷会を大事にしたいと思います。共に集まって聖書を読み、祈ることこそ、主にある交わりであり、この交わりなしには、信仰の成長はありません。私たちの信仰は、自分一人が救われて「良し」とする信仰ではなく、共に救われる信仰だからです。

・初代教会も時代の変化と共に変わり始めます。最初の使徒たちがいなくなると、使徒の教えについて解釈が分かれ、対立が生じて来ました。食卓での交わりも、やがて異邦人が教会に加えられると無割礼の異邦人とは食卓を共に出来ないと言い始める人も出ます。信仰と生活が次第に分離していきました。毎日の生活はきれいごとだけでは済まされないのです。しかし、教会はその本質を失いませんでした。今でも、私たちの信仰生活の原点はこの初代教会の生き方にあります。初代教会は「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」共同体を形成しました。今日の教会でも、この分かち合いが献金という形で生きています。「能力に応じて捧げ、必要に応じて用いる」ことが、献金の原点です。初代教会が、単に説教を聴いて讃美するだけの教会ではなかったゆえに、私たちも社会の動きの中で、何をすべきかを模索します。社会的な差別の中で苦しむ人がいれば、その人のために行動します。初代教会は、病気になっている者、問題を抱えている者、信仰が弱まっている者のために祈りました。この祈りを私たちも続けます。初代教会が示しますように、祈りは行為を伴うのです。

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