1.聖霊を与える約束
・イエスは言われた「私を愛するならば、私の掟を守る。そうすれば、父は聖霊をあなた方に送ってくださる」。
−ヨハネ14:15-16「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。
・イエスの掟とは「互いに愛し合うことだ」。愛し合うことがイエスの弟子のしるしである。
−ヨハネ13:34-35「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」
・この愛はキリストからくる。イエスが私たちを愛してくださったから、私たちも人を愛することが出来る。
−?ヨハネ3:16「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
・神から送られる聖霊はイエスを信じない者には見えない。聖霊は全ての人に開かれているのに、彼らは知ろうともしないので、見えないのだ。
−ヨハネ14:17「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
・そしてこの霊があなた方を守ってくださる。この霊が再び戻られるイエスであることが次第に明らかにされる。
−ヨハネ14:18-20「私は、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。・・・私が生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」
・そしてこの霊は、イエスを求め、イエスを愛するものだけに与えられる。
−ヨハネ14:21「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」
2.聖霊と共に在る平安
・私が生きているのであなた方も生きると言われる。その時、主にある平安が、私たちの出来事となる。
−ガラテヤ2:20 「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
・それは世が与える平安とは異なる。世の平安(富・健康・名誉等)はやがてなくなる一時的なものだ。神の平安とは、死と裁きからの解放であり、外部情況がどうであれ、揺るがない平安(=心の平和)だ。
−ヨハネ14:27「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。
・世の支配者は私を殺すだろう。しかし、彼らは私を殺すことによって、神の栄光を現すだけなのだ。
−ヨハネ14:30-31「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。私が父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである」。
・私たちは十字架による神の栄光を信じる。それは霊の目によって明らかにされたことだ。
−?コリ1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
・私たちはもう、肉の人ではなく、霊の心を与えられたものだ。争いをする時ではなく、愛し合うことによってイエスの弟子であることを示す時だ。
−?ヨハネ4:20-21「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」