江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年11月5日  ヨハネ4:43-54  見ずして信じる

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1.役人の息子のいやし

・イエスはガリラヤに帰って来られた。イエスは前に、故郷のナザレで、人々から受け入れを拒否されたことがある。ガリラヤの人々は予期に反してイエスを歓迎した。エルサレムでの不思議な業を見ていたからだ。
―ヨハネ4:43-45「イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、その時エルサレムでイエスがなさったことを全て見ていたからである。」
・ガリラヤのカナに着かれた時、そこにカペナウムに住む王の役人が息子のいやしを求めてきた。息子は重病であり、この人ならば息子を救えるかもしれないと思い、長い道のりを訪ねてきた。
―ヨハネ4:46-47「カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」
・イエスはこの男もまた「しるし」を求めていると思われ、その願いを拒否された。
―ヨハネ4:48「イエスは役人に『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。」
・役人は息子の救命に必死だった。その必死さがイエスを動かした。
―ヨハネ4:49-50「役人は『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」
・役人は半信半疑で帰途に着いた。帰り道で僕たちと出会い、息子がいやされたことを聞き、彼と家族はイエスを神の子と信じた。
―ヨハネ4:51-53「下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは『きのうの午後一時に熱が下がりました』と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。」

2.見て信じる信仰と見ずに信じる信仰

・人はいつも見て信じる。見ないと信じられないのは当然だ。しかし、「見て信じる信仰」は、「見ないで信じる信仰」に昇華されないと、その信仰は崩れる。
―ヨハネ2:23-25「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。・・・イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」
・見て信じるに留まる時、いつまでもしるしだけを求め、自分の新生がない。イエスを十字架につけた人々はイエスが為された多くのしるしを見ながら、彼を救い主と信じることが出来なかった。
―マタイ27:41-42「祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』」。
・この役人もイエスを救い主と信じたのは、子がいやされたのを知った時だ。自分が主体者としてしるしを体験し、それによって変えられて行った時、半信半疑の信仰が、ゆるぎない信仰と変えられていく。
―ヨハネ20:27-29「『あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて『私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』
・新生を経験した信仰は、もう崩れない。苦しみ、疑いながらも、主を信じ続ける。願いがかなえられない時には、かなえられないことを感謝する者になる。
―?コリ12:7-9「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

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