1.救われる者
・マタイは、人は最後の時に、イエスの前に出て審判を受けると記す。その審判の基準は神が私たちを愛されたように、私たちも隣人を愛したかどうかである。
―マタイ25:34-36「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
・神を愛するとは人を愛することである。正しい人たちは自分が何故誉められるのか知らない。彼らは救われるためでなく、神に対する感謝から行為しているからだ。
―マタイ25:37-40「『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』・・・王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
2.救われないもの
・すべての人が救われるわけではない。神の思いよりも自分の思いを優先するものは救われない。たとえ、その人がバプテスマを受け、教会に連なる者であろうともである。
―マタイ7:21-23「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
・救われない人たちも罪責感はない。人を愛さない者は神を愛さない者であることを知ろうとしない。
―マタイ25:44-45「『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」
3.このたとえは誰に言われているのか
・初代教会は貧しく、日毎のパンにも事欠いたから、彼らはパンを与えて下さるように祈り、与えられればそれを裂いて分けた。主の祈りは生活の祈りであり、聖餐とは共にパンを分け合う行為であった。
―使徒行伝2:46-47「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」
・しかし、時代が経るに従い、教会の中にも自分たちだけで食べ、貧しい人は飢えるという自体も起こってきた。
―?コリント11:20-21「それでは・・・主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」
・教会は天の国の先駆けだ。その教会で愛の行為が為されなければ、どこに信仰があろう。信仰は生活なのだ。
―ヤコブ2:15-17「兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
・キリストが何故馬小屋で生まれられ、何故ロバの子に乗ってエルサレムに入場され、何故弟子たちの足を洗われ、何故十字架で死なれたのか。キリストが小さい者の神であることを理解しない者はキリストの弟子ではない。
―ヘブル13:1-3「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」