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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年5月22日 マタイ5:13-16 地の塩、世の光であれ

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1.地の塩、世の光

・弟子はこの世において〈地の塩〉の役割を果す。塩は腐敗を防止する、そうでなければ,存在する意味がなくなり,世の人々からも見捨てられる。
―マタイ5:13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
・弟子はまたキリストという光を反射して世界を照らす光となる。
―マタイ5:14-15「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」
・私たちの使命は、地の塩・世の光としての自分を世に示すことにより、神を証することである。
―マタイ5:16「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
・パウロは、それは私たちがキリストの手紙になることであると言う。
―?コリント3:3「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」

2.私たちは行いにより神を証しするように求められている。しかし、私たちは出来ない。

・パウロが述べたように義人は一人もいない。
―ローマ3:9-17「次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」

3.しかし、イエスの十字架により、義とされた。

・悔改めとは、自分が罪人であることを認めることである。
―ローマ7:18-24「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」
・パウロはイエスが十字架に死なれたように、人も一旦死ぬことによって義となりうるという。
―ガラテヤ2:19-20「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
・キリストの霊が宿っているものはそれに相応しい行為に導かれる。
―ロマ 8:9-10「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」

4.聖化をどのようにとらえるか

・キリスト者は,神が聖であるように,自らを聖別し,きよい生活を追い求めるよう命じられている
―?ペテ1:15‐16「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。」
・キリスト者の生活における聖化は,新生時に瞬間的に聖とされる側面と、キリスト者としての生涯を通じてその状態がよりキリストに似たものとなるという漸進的に聖とされていく過程の2通りがある。私たちがキリストに倣うものになるとき、私たちは地の塩、世の光になり得る。それは、キリストの十字架を負うことでもある。

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