1.二回目の人口調査
・最初の出立から40年が過ぎ、古い世代は死に絶えた。新しい世代が、約束の地に入るための二回目の人口調査を受ける。目的は敵と戦うための兵役登録と占領後の領地の分配のためであった。
−民数記26:1-2「主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに向かって言われた。『イスラエルの人々の共同体全体の中から、イスラエルにおいて兵役に就くことのできる二十歳以上の者を、家系に従って人口調査しなさい』」。
・40年前、希望に燃えてエジプトを出た時にも人口調査が行われた。今回は二回目の調査である。
−民数記1:17-18「モーセとアロンはこれらの任命された人々を従え、第二の月の一日、共同体全体を召集し、二十歳以上の男子を氏族ごとに、家系に従って一人一人点呼し、戸籍登録をした」。
・40年の時が流れた。数えられた民族のうち数を増した民族(マナセ族、ベニヤミン族)、減らした民族もあった(シメオン族、エフライム族)。それぞれの行為の故である(バアル・ペオルの災いでシメオン族は多く死んでいる:民数記25:14)。民の中核をなすのはユダ族である。
(部族名) (第1回調査)(第2回調査) (部族名) (第1回調査)(第2回調査)
ルベン 46500人 43730人 シメオン 59300人 22200人
ガド 45650人 40500人 ユダ 74600人 76500人
イッサカル 54400人 64300人 ゼブルン 57400人 60500人
マナセ 32200人 52700人 エフライム 40500人 32500人
ベニヤミン 35400人 45600人 ダン 62700人 64400人
アシェル 41500人 53400人 ナフタリ 53400人 45400人
(合 計) 603550人 601730人
・世代は変わった。第一回目の調査の時にいた人々は、ヨシュアとカレブの二人を残して、死に絶えた。
−民数記26:63-64「以上は、モーセと祭司エルアザルが、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野でイスラエルの人々を登録したときの数であって、その中には、モーセと祭司アロンがシナイの荒れ野でイスラエルの人々を登録したときに登録された者は一人もいなかった」。
・世代は変わったが、全体の人数は60万人で変わらない。罪を犯し続けた民をも神は生かされた。
−申命記8:2-4「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」。
2.土地の分配
・人口調査の目的は、兵役登録と同時に、占領後の土地分配のためでもあった。
−民数記26:52-54「主はモーセに仰せになった。『これらの人々にその名の数に従って、嗣業の土地を分配しなさい。人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない』」。
・どの土地を与えるかは、くじで決められた。人間の恣意ではなく、神の意思が反映されるためである。
−民数記26:55-56「土地はくじによって分配され、父祖以来の諸部族の名に従って継がれねばならない。嗣業の土地は、人数の多い部族と少ない部族の間で、くじの定めるところに従って分配されねばならない」。
・教会の形成も同じだ。12使徒たちは欠員を埋めるためにくじを引いた。私たちも人の思いを超えて働かれる神に委ねて教会を形成する。教会の主は神であり、私たちではない。私たちが罪を犯しても、神は共同体(イスラエル=教会)を残して下さる。しかし、世代は交代する。
−ヘブル3:16-19「一体だれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。一体だれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。一体だれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことが私たちに分かるのです」。
3.イスラエルの土地取得の歴史を考古学的に考える
・ヨシュア記によると、ヨシュアに率いられたイスラエルの一二部族は、最初にヨルダン川の東を占領し、ギルガルでヨルダン川を渡り、そこから一気に進軍して、まず中部パレスチナのエリコ、アイ、ベテルを征服し、さらにパレスチナの南部と北部をも取得した。そして最後に、全地がくじによってイスラエルの一二部族に分配されたとする。
・しかし、現在の考古学的検証では、イスラエルの「平和的浸透説」が通説になっている。A.アルトはパレスチナの地を綿密に調査して、後期青銅器時代のカナンの都市国家群が、平地に集まっていたが、中央高地は、シケム、ベテル、エルサレムなどの都市が散在したものの、多くの森林に覆われ、小家畜飼育者の平和的浸透を可能にする状態であった、と言う。初期イスラエル民族は最初のうちは余り人の住んでいなかったパレスチナの中央高地に入り、徐々に定着し、かなりの時を経過して、有力な集団になった時、カナンの都市国家と軍事的衝突を起こし、これを占領したと考える。
・ヨシュア記の記事を文字通り取るならば、「統一的軍事征服説」が有力なるが、しかし最近の文書批判的、伝承史的、様式史的研究によって、この書の最終形態は、実は多くの層から構成されており、長い伝承と編集の過程を経てはじめて出来上がったことが明らかにされてきた。カナンの町々の占領が常に軍事的手段によって行われたとする総括的叙述(ヨシュア記11・19)は、文書的には最も新しい層に属し、これは侵入、定着した諸部族が最初のうちは、城壁に囲まれたカナンの都市を支配することが出来なかったと語る古いヨシュア記中の伝承群や士師記1章の叙述と矛盾する。
・初期の段階では、イスラエルの部族がカナンの都市国家の領地を軍事力で奪い取るということは不可能であった。聖書の伝承は、イスラエル人が都市国家の戦車の武力の前に全く無力であったこと、さらに城壁で囲まれた都市があり、戦車の使えた平野には足を踏み入れることが出来なかったことを認めている。士師記1章17―36節のイスラエルが占領することが出来なかったカナンの都市国家を数え上げる。「未占領地の表」は、何よりもこのことを裏づける。住民が少なく城壁もない、またカナン人が農業にほとんど利用していなかったような山地には、遊牧民の集団は比較的容易に植民することができた。そしてイスラエルがこのような形で定着し、長い時間が経過して、彼らが「強くなった」時(ヨシュア記17・13)、すなわち土地取得の第二の段階で、彼らははじめて要塞化された町々を征服し、その領土を併合することが出来るようになった。
・イスラエルという一二部族の連合は、カナンの土地取得以前にすでに存在していたのではなく、土地取得後に初めて構成された。出エジプトやシナイの出来事は、一二部族連合のすべてではなく、個々の集団や氏族のみが関係したものであった。伝承過程において、出エジプト伝承とシナイ伝承が結合され、本来は個々の集団が体験した出来事が、イスラエル全体の上に移し変えられて行った。 イスラエルの人々の土地取得は、決して孤立した出来事ではなく、いわゆるアラム移動群というより大きな運動の枠組の中で行われたのである。イスラエル人や、その周辺に定着したエドム人、モアブ人、アンモン人は、その後母語のアラム語を捨て、「カナン語」、すなわち先住民の言語を使うようになったが、シリアに定着した諸集団はアラム語を保持し、ここからより狭い意味で「アラム人」と呼ばれるようになった。(メッツガー「古代イスラエル史」他より)。