1.ヤコブの逃走
・ヤコブは長子権を兄エソウから騙し取り、更には父イサクを欺いて家督相続の祝福さえも盗んだ。エソウが長子権と父親の祝福を奪い取られたことは、一族の長になる資格を奪い取られたことだ。エソウはヤコブを憎み、殺すことを誓う。エソウの誓いを知った母リベカは、ヤコブを自分の実家ハランに一時的に逃げさせることとし、ヤコブの旅が始まる。
-創世記27:41-44「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った『父の喪の日も遠くない。その時がきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる』。ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子のヤコブを呼び寄せて言った『エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています・・・急いでハランに、私の兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい』」。
・ヤコブは父イサクをも騙したが、父はこれを赦し、ヤコブを祝福して送り出した。
-創世記28:1-5「イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた『お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。どうか、全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように』。ヤコブはイサクに送り出されて、パダン・アラムのラバンの所へ旅立った。ラバンはアラム人ベトエルの息子で、ヤコブとエサウの母リベカの兄であった」。
・ヤコブはハランに向かって旅立った。ベエル・シェバからメソポタミヤのハランまでは1200?離れている。かつて祖父アブラハムが神の召しに応えて希望を持って歩いた道を、今、孫のヤコブが故郷を追われて、逆にたどっている。出発してから数日後、彼はルズと呼ばれる町の近くまで来て、そこで日が沈み、野宿の支度をする。
-創世記28:10-11「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来た時、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」。
2.ベテルでの神との出会い
・真っ暗な荒野で石を枕に野宿する。いつ盗賊に襲われるかもわからないし、野獣の鳴き声も聞こえていた。彼は不安の中にあった。彼は故郷で兄と父を騙して逃れてきた。彼の後ろには恐怖と後悔がある。これから行くハランで親族として受け入れてもらえるかわからないし、無事にハランまで行ける保証もない。彼の前には未知と不安がある。恐怖と後悔が後ろに、未知と不安が前にある中で、ヤコブは一夜を迎え、そこで不思議な夢を見た。
-創世記28:12「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」
・当時の人々は神の住まれる天と、人間の住む地は繋がっており、神の使いたちが天から降りて来て、神の命令を執行するために各地に赴くと考えていた。その夢の中で神からの声が響いてきた。
-創世記28:13-15「見よ、主が傍らに立って言われた『私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』」。
・イエスもこのヤコブのはしごに言及されている。イエスが神と人との間のはしご(仲保者)になられるとの意味である。ヤコブがはしごを見たことは彼も神と人との仲保者になることを暗示している(ヤコブはやがて名前を変えてイスラエルになり、イスラエル12部族の祖になる)。
-ヨハネ1:51「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
・ヤコブは命を狙われて、逃げている。逃亡先で受け入れられる保証もない。共にいてくれる人はいず、完全な孤独の中にいる。人間関係に破れ、右も左も前も後ろも閉じている、しかし、そのヤコブが見出したのは上が空いていたということだ。天が開けた。人々との人間関係が全て破綻して閉じ、誰も私たちのことを気にかけないし心配もしない、そのような状況にヤコブは追い込まれた。しかしそこに垂直の関係が生じた、神と出会った。それを聖書は信仰体験と呼ぶ。信仰とは信じて仰ぐ、上を仰ぐことだ。ヤコブはその信仰体験をここでした。
3.神とヤコブの対話
・ヤコブは全身で畏れを感じた。生まれて初めて経験する深い感情だった。眠りから覚めると、ヤコブは枕にしていた石を記念碑として立て、その先端に油を注いで、祭壇とし、その場所をベテル(ベート・エル=神の家)と名づけて、礼拝を行い、神の前に誓願する。
-創世記28:20-22「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます」。
・ヤコブは今まで自分の知恵と行動力で、野心を一つ一つ果たしてきた。兄を出しぬいて長子権を獲得し、父を騙して家督相続の祝福を奪い取った。彼は神を仰ぐことも、祈ることもない、極めて世俗的な人間だった。しかし人生の危機における神との出会いを通して、彼の人生は変えられていく。変化は始まった。かつて長子権と祝福をだまし取ったヤコブが、今は「食べる物と着るもの、旅の安全」というささやかなものを求める存在になっている。しかし、まだ利己的な祈りに留まっている。「主が私の神となられるなら」、無条件の信頼ではなく、まだ「取引」を求めている。自己の利益を求める信仰はやがて崩れていく。崩れない信仰を持つには鍛錬の時が必要であり、ヤコブはこれから20年間の苦難の人生を与えられる。
-ホセア12:12「ヤコブはアラムの地に逃げていった。イスラエルは妻をめとるために人に仕えた。彼は妻をめとるために羊を飼った」。
・ベテルのヤコブはまだ祝福を受ける信仰に留まっている。ヤコブは変えられなければいけない、だから20年間の労苦の時が与えられる。人を騙してきたヤコブが親族から騙され(29:35,30:35)、最愛の妻からは子が出来ないことをなじられ(30:2)、親族の家から命からがら逃げ出す経験を彼はこれからしていく。その経験を通して彼は鍛錬され、神の器となっていく。20年後にヤコブはこの神との出会いを回想する。ヤコブが神の僕となる為には20年が必要であった。
―創世記31:41-42「この二十年間というもの、私はあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたは私の報酬を十回も変えました。 もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方が私の味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を追い出したことでしょう。神は、私の労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです」。
・20年後にラバンの家を出たヤコブは家族を連れて故郷に戻るが、その時彼を苦しめたのは、かつて欺いた兄エソウから殺されるかも知れないという不安だった。彼は神に祈る。
-創世記32:11-12「私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつて私は、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救って下さい。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、私をはじめ母も子供も殺すかもしれません」。
・最後にヤコブは告白する「自分は決して幸せな人生ではなかった」と。ヤコブの生涯は「幸せな生涯」ではなかった。しかし「意味ある生涯」だった。神の器として選ばれるとは、神の祝福を「受ける」ためではなく、祝福を「運ぶ」ために選ばれる人生を歩むことではないか。
-創世記47:9「私の旅路の年月は百三十年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、私の先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」。