1.あなたの業を主に委ねよ
・箴言16章は人間の基本的なあり方を私たちに教える。すなわち、「私たちが生きているのではなく、生かされている」という事実である。生かされているのであれば、日常の出来事の全てを主に委ねれば良い。新生讃美歌507番「主の手に委ねて」は私たちの基本となる生き方だ。
-箴言16:1-3「人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。あなたの業を主に委ねれば、計らうことは固く立つ」。
・人が何事かを為すのではなく、主が為さる。このことに気づいた時、私たちの生き方は変わってくる。自分の力で生きていると思う間、人生は試練の連続である。主に生かされていることに気づく時、人生は発見の連続になる。
-申命記8:17-18「あなたは『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。
・そして与えられた生を一生懸命に生きた時、そこに道が開ける。
-箴言16:9「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」。
・人生は思い通りにいかない。与えられた道が最善と思えない時もある。しかし与えられた道の意味を尋ね求める時、そこに答えを見出すのではないか。
-ロバート・ベラー:善い社会から「ヘブル書の著者が誰であるかはどうでも良い。真の問題はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかである。ヘブル13:5 “主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました”とある。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉は何を私に語るのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」。
2.稼ぎが多くても正義に反するよりも
・現代社会は経済優先、利益優先の社会になっている。その中で「儲かりさえすれば何をしても良い」という風潮が人を蝕んでいる。しかし箴言は「倫理に反する経済活動は永続しない」と明言する。
-箴言16:8「稼ぎが多くても正義に反するよりは、僅かなもので恵みの業をする方が幸い」。
-箴言16:19「貧しい人と共に心を低くしている方が、傲慢な者と分捕り物を分け合うより良い」。
・私たちが生かされているのは、お金のためではなく、神の国をこの世に広げるためである。古代ローマにおいて少数派であったキリスト教徒が多数派にさせられたのも、そのためであったと思われる。
-ロドニー・スターク:キリスト教とローマ帝国から「福音書が書かれた紀元100年当時、キリスト教徒は数千人という小さな集団であり、紀元200年においても数十万人に満たなかった。その彼らが紀元300年には600万人を超え、キリスト教が国教となる紀元350年頃には3千万人、人口の50%を超えた。何故彼らはそのように増えたのか、キリスト教の中心教義が人を惹き付け、自由にし、効果的な社会関係と組織を生み出していったからだ。疫病の時にキリスト教徒はどのように行為したか、ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、時には人口の1/3〜1/4を失わせるほどの猛威を振るった。死者は数百万人に上り、人々は感染を恐れて避難したが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬した(紀元251年司教ディオニシウスの手紙、エウセビオス「教会史」)。この「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせた」。
・しかし多数派になれば教会の姿勢は変化する。紀元313年のコンスタンテイヌス帝のキリスト教公認を契機に教会は変わり始める。これを堕落と見るか、現実的な対応と見るかは見解が分かれる。
-カール・バルト:キリスト教倫理から「初代教会は戦争に反対してきた。しかし、コンスタンテイヌス以降、教会は戦争を肯定し、アルル司教会議(314年)では戦争参加を拒否するものを教会から除名することを決議した。アウグステイヌスでさえ聖戦論を唱えた(ゲルマン民族のローマ帝国侵略という歴史的背景があった)。その後も教会は戦争を肯定してきたが、これは新約聖書的認識に正しく従っていなかったと言わざるを得ない。戦争に対する特別の驚愕と嫌悪こそ、教会が他の人々に明らかにしなければならないことである。しかし、教会はこの世に存在する。従って、戦争が原理的に避けられるものだということを宣教すべき委託は持っていない。だが、この世においても、戦争が原理的に不可避であり、原理的に正当化されるという悪魔的な考えに反対する委託は持っている。戦争は絶対的にではなく相対的に、原理的ではなく実際的に避けられるものだという認識への落ち着いた理性が求められる。教会は戦争論者に反対すると同時に、絶対平和主義にも反対すべきなのである」。
3. 怒りを遅くする者は勇士にまさる
・箴言はヘブル語で書かれており、古代ヘブル語は子音のみで母音がなく、読む時に文脈の中で母音を想定して読む。従って、どこに母音をつけるかで読み方が異なってくる。mrymはミリアムともマリアムとも読める。箴言テキストも解釈によって大幅に意味が異なってくる。16:32もそうだ。
-箴言16:32(新共同訳)「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる」。
-箴言16:32(口語訳)「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」。
・ここでは口語訳に従って意味を考える。その時、勇士は一人では何も出来ないが、心を一つにして共同で相手に当たれば勝てると理解する。共同、共にあることを求める時、暴言をはく者、不法を行う者は共同体を壊していく。
-箴言16:28-29「暴言をはく者はいさかいを起こさせる。陰口は友情を裂く。不法を行う者はその友を惑わして、良くない道を行かせる」。
・だから私たちは教会を大事にする。私たちの安息の地はこの地上にはない。私たちは神の国を求めて地上を歩く寄留者だ。一人では歩けない。だから共に歩く者を必要とする。
-ヘブル11:13-16「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。