1.モアブ滅亡の預言
・イザヤ15−16章はモアブ滅亡の預言だ。モアブ王国は前13世紀に死海東部の高原に生まれ、次第に北に勢力を伸ばした(ルツもモアブの女性)。ダビデ時代にはイスラエルの属国とされたが独立し、バビロン時代にはバビロン軍の一翼を担ったが、後にバビロンに逆らい、滅ぼされた。預言者はモアブの滅亡を自分のことのように悲しんで歌う。
−イザヤ15:1-5「モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。ディボンの娘は、嘆くために聖なる高台に上った・・・皆、髪をそり上げ、ひげをそり落とす。巷で、人々は粗布をまとい、屋上でも広場でも皆、泣き叫び、嘆きくずおれる。ヘシュボンとエルアレは助けを求めて叫び、その声はヤハツにまで聞こえる。・・・わが心は、モアブのために叫ぶ」。
・預言者はモアブ滅亡の原因はその高慢にあったという。高慢こそ罪の象徴だ。神の裁きは罪に対する砕きだ。
−イザヤ16:6「我々はモアブが傲慢に語るのを聞いた。甚だしく高ぶり、誇り、傲慢で驕っていた。その自慢話はでたらめであった。それゆえ、モアブは泣き叫べ。モアブのすべての者は泣き叫べ」。
・敵が侵攻し、人々は助けを求めて逃げまどう。二次大戦末期、私たちの父祖も満州から助けを求めて国境へ逃げた。
−イザヤ15:5-7「逃れて行く者がツォアルへ、エグラト・シェリシヤへと向かう。彼らは、ルヒトの坂を泣きながら上り、ホロナイムへの道で、絶望の叫びをあげる。ニムリムの水は干上がり、草は枯れ、青草は尽き、緑はなくなった。それゆえ、彼らは蓄えた富と家財を携え、アラビムの川床を渡る」。
・国境に着いたが、そこは救いの場ではなく、敵の軍勢に追いつかれて、国境の川は血に染まる。
−イザヤ15:9「ディモンの水は血に染まる。私が、ディモンに災いを加え、モアブの難民とアダマの生き残りの者に獅子を送るからだ」。
・残った者は助けを求めてイスラエルに逃れようとした。
−イザヤ16:1-4「使者を立て、貢ぎ物の羊を送れ、その地を治める者よ、荒れ野の町セラから、娘シオンの山へ。『アルノンの渡し場に集うモアブの娘らは、巣を追われ、さまよう鳥のようです。助言し、指示を与えてください。真昼にも夜のような陰となって、追われた者を隠し、さまよう者を覆ってください。モアブの追われている者を、あなたのもとに宿らせ、破壊する者から隠してください』」。
・預言者は彼らを助けよと叫ぶ。敵を助けることこそがイスラエルの立つ場ではないかと。
−イザヤ16:4-5「まことに、地上から虐げる者はうせ、破壊する者は滅び、踏みにじる者は絶える。そのとき、ダビデの幕屋に、王座が慈しみをもって立てられ、その上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす」。
・しかしイスラエルは拒否し、モアブは滅ぼされた。第二次大戦中、多くのユダヤ難民が助けを求めてスイス国境に殺到したが、スイス政府は1942年8月に国境を閉じた。
−イザヤ16:11「それゆえ、わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・ヘレスのために、竪琴のように嘆く」。
2.この預言は私たちにとってどういう意味を持つのか
・エレミヤ48章もモアブ滅亡の預言だ。その一部はイザヤ15−16章と並行する。
−エレミヤ48:29-31「我々は、モアブが傲慢に語るのを聞いた。甚だしく高ぶり、誇り、傲慢に、驕り、慢心していた。私自身、モアブの横柄を知っていると主は言われる。その自慢話はでたらめ、なすこともでたらめだ。それゆえ、私はモアブのために嘆き、モアブの全国民のために叫ぶ。キル・ヘレスの住民のために人々は呻く」。
・モアブは罪のために滅ぼされた。何故滅びがあるのか、罪ゆえだ。私たちは災いや不幸が来ないように祈るが、しかし災いは与えられる。聖書はその災いを積極的に受けよ、災いから目をそらすなと教える。
−哀歌3:28-30「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ」。
・何故なら災いは主から来る。そして主は私たちを滅ぼすためではなく、救うために災いを送られる。そのことを信じた時、災いを通して私たちは精錬されていく(滅びと死は異なる。復活を信じる者にとって死は滅びではない)。
−哀歌3:31-33「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・カナの婚礼でぶどう酒がなくなった。私たちはすぐに、何故なくなったのか、誰が悪いのかを議論し、非難しあう。イエスは水をぶどう酒に変えられた。ぶどう酒がなくなるという災いを通して、主の御業が示されたのだ。
−ヨハネ9:3「イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。