1.過って罪を犯した者の赦し
・ヨシュアに、「過って人を殺したものが逃れることの出来る町を定めよ」と命じられた。
−ヨシュア記20:1-3「主はヨシュアに仰せになった。『イスラエルの人々に告げなさい。モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる』」。
・モーセに設置が命じられていた町を、土地の割り当てが実施された今、具体化せよとの命令であった。
−民数記35:9-15「主はモーセに仰せになった。『イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るとき、自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい。町は、復讐する者からの逃れのために、あなたたちに用いられるであろう。人を殺した者が共同体の前に立って裁きを受ける前に、殺されることのないためである』」。
・人を殺した者は殺されねばならない。しかし、過って殺した者を裁判の前に、復讐者の前に差し出してはいけない。彼は殺されねばならない罪を犯していないからだ。
−ヨシュア記20:4-5「これらの町のいずれかに逃げ込む場合、その人は町の門の入り口に立ち、その町の長老たちの聞いている前でその訳を申し立てねばならない。彼らが彼を町に受け入れるなら、彼は場所を与えられ、共に住むことが許される。たとえ血の復讐をする者が追って来ても、殺害者を引き渡してはならない。彼がその隣人を殺したのは意図的なものではなく、以前からの恨みによるものでもなかったからである」。
・罪が故意であるか、過失であるかが、町の長老によって裁かれる。過失者の罪は軽減され、復讐者から保護される。そして、大祭司が死ねば、特赦として、自分の町に帰ることが出来た。
−ヨシュア記20:6「彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる」。
・逃れの町が設置されたのは、聖所のある町であった。シケム、ヘブロンは有名な聖所であり、他の町も聖所であったと思われる(ケデシュ=神聖な、ラモント=高い所、ベツェル=近寄りがたい、ゴラン=啓示された)。
−ヨシュア記20:7-8「彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライム山地のシケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。エリコの東、ヨルダン川の向こう側では、ルベン族に属する台地の荒れ野にあるベツェル、ガド族に属するギレアドのラモト、マナセ族に属するバシャンのゴランをそれに当てた」。
2.犯罪と刑罰の歴史から導かれるもの
・人間は自分を攻撃した相手に対して無限の復讐を求める。それが人の本性であろう。
−創世記4:23-24「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」。
・無制限の報復を禁じるために、同害報復法(目には目を)が生まれてきた。
−出エジプト記21:23-25「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」。
・その中で、過失者に対する救済規定として逃れの町が生まれてくる。
−出エジプト記21:12-14「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、私はあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼を私の祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる」。
・旧約においては、故意に人を殺したものは死罪となった。新約においては故意の殺人者さえも赦される。
−?コリント5:17「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。
・全ての罪がキリストの十字架において赦された。その具体化が、逃れの町の規定であり、今日、逃れの町は教会である。教会は罪を犯したものが救いを求めてくる場だ。私たちは、教会の救済力をどのように高めるのか。
−マルコ9:22-24「『霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください』。イエスは言われた。『できればと言うか。信じる者には何でもできる』。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助けください』」。