江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年11月6日説教(申命記34:1-12、私は約束の地を見た)

投稿日:2011年11月6日 更新日:

1.モーセは約束の地を前にして、死んだ。

・三回にわたって申命記を読んできましたが、今日が申命記の最後34章で、モーセの死が記されています。モーセは、エジプトの地で奴隷として苦しむ民を救うために立てられ、40年間の荒野の旅を経て、モアブの地まで民を率いて来ました。主が与えると約束された地はヨルダン川を挟んで目の前にあります。しかし、モーセは約束の地に入ることは出来ず、それを前にモアブの地で死にます「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った」(34:1)。ピスガはネボ山を構成する頂の一つで標高700メートルです。モーセはその山に登り、これから与えられる約束の地をはるかに見ました(34:1-2)。しかし、彼はその地に入ることは出来ません。主はモーセに言われました「これがあなたの子孫に与えると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。私はあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」(34:4)。
・モーセは主の命令によりモアブの地で死に(34:5)、葬られましたが、誰もその墓の場所を知らないと申命記は記します(34:6)。モーセがどのように苦労して民をここまで導いてきたのかを、私たちは出エジプト記や民数記を通じて知っています。約束の地に入る資格があるとしたら、正にモーセこそその人であるべきだと思います。そのモーセが約束の地を前にして、人間的に見れば無念の中に死んでいます。何故なのでしょうか、申命記の記事はそのような疑問を投げかけます。申命記の著者はモーセが神に対して罪を犯したから、約束の地に入れないのだと理解しました「あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、私がイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない」(32:51-52)。
・私たちは納得できません。長い人生の中にあって、誰でも一度や二度は主に背き、罪を犯します。主はそれらの罪の一つ一つを赦されない方なのか。モーセも納得していません。彼は主に何度も抗議を申し立てています「私は、そのとき主に祈り求めた・・・どうか、私にも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」(3:23−25)。しかし、主は拒否されます「主は、あなたたちのゆえに私に向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主は私に言われた。『もうよい。この事を二度と口にしてはならない』」(3:26)。モーセが無念の死を迎えたことを申命記は隠しません。

2.神は何故、モーセを無念のままに死なせられたのか。

・モーセの死の意味については、申命記31:16-17に一つのヒントがあるような気がします。その所で主はモーセに言われています「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、私を捨てて、私が民と結んだ契約を破るであろう。その日、この民に対して私の怒りは燃え、私は彼らを捨て、私の顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる」。主はモーセに荒野の40年を思い起こせと言われます。「イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しみ、私に助けを求めた。私はその声を聞き、あなたを遣わして彼等をエジプトの地から救い出した。救出された民にエジプト軍が追ってくると彼らは言った『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか』(出エジプト14:11)。私は葦の海を二つに分けて彼等を助け、エジプト軍を滅ぼした。食べ物がなくなると彼らは不平を言った『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた』(出エジプト16:3)。私はマナを与えて彼等に食べさせた。マナに食べ飽きると彼らは言った『私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない』(民数記11:5-6)。またコラの人々はあなたの指導に逆らって言ったではないか『全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか』(民数記16:3)」。
・主は言われます「私は、私が誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである」(申命記31:21)。主はモーセにこのように言われたかもしれません「私の民、あなたが40年間導いた民はこういう民だ。彼等が約束の地に入った瞬間に正しい民になると思うか、思わないだろう。あなたは十分苦労した。この先あなたを待っているのは新しい幻滅と苦難だ。これから先の苦労は若いヨシュアに任せよ。私の業は民が約束の地に入った時に完成するのではなく、それもまた途中経過の一つなのだ」と。
・人は願いが満たされれば満足しますが、やがて飽き、次のものを求めます。約束は果たされた時にその栄光を失います。更に誰が指導者になるかの権力争いも絶えません。モーセが約束の地に入ることを許されても、そこでまた新しい苦難を与えられるだけです。ですから神は恵みとして、モーセを世から取り去られ、後事をヨシュアに託された。この物語は世代交代の大切さを私たちに教えます。モーセが死んだ時、「彼の目はかすまず、活力も衰えていなかった」(34:7)と申命記は記しますが、その体は確実に老い、気力も衰えており、もはやかたくなな民を導くだけの力はなくなっていたのです。

3.私たちの旅は終らない。

・今日の招詞に詩編102:26-28を選びました。次のような言葉です「かつてあなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては替えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません」。詩人は捕囚末期に生きています。70年に及ぶバビロン捕囚が終り、民のエルサレム帰還が始まりましたが、詩人自身は老齢のためか、病身のためか、帰還する事はできません。彼は、自分は生きている内に神の栄光を見ることはできないと嘆きます。彼は、「自分はまもなく死ぬ」、「自分はエルサレムに帰る事はできない」、「自分は取り残されてしまった」と身の不幸を嘆きます。彼は、異教の地で死んでいかなければいけない自分の人生は何であったのかと回顧し、人生のはかなさを、「私の生涯は移ろう影、草のように枯れて行く」と表現します。ところが、その嘆きが13節以下で賛美に変わります。13節(口語訳では12節)は歌います「しかし主よ、あなたはとこしえにみくらに座し、その御名はよろず代に及びます」(口語訳)。「しかし、主は生きておられる。自分は帰国できないかもしれないが、次の世代は帰国の喜びを味わうことができる」。自分は帰ることが出来ない詩人は、民族の帰還に希望と喜びを感じたのです。祈りが聞かれる、願いが適えられる、それは自分の代でなく子どもの代でも良い。その信仰が彼に希望を与えたのです。
・アブラハムは「あなたを大いなる国民にする」と祝福されて旅立ちましたが(創世記12:2)、彼に与えられたのは、イシマエルとイサクの二人の子と、妻サラを葬るための小さな土地のみでした。それで良いではないかとヘブル書は言います「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブル11:13)。主の業は私たちの死を超えて続いていきます。人は有限ですが神は永遠です。私たちが人生の半ばで死に、やり残したことがあったとしても、その後は主に委ねれば良いのです。
・私たちの人生、この世の生は未完であって良いのではないか。私たちはこの世で約束の地を目指して旅をします。しかし、私たちの旅は死では終りません。死も途中経過の一つに過ぎません。モーセは荒野で死に、未完の生涯を終えました。そのことによってモーセは荒野に残り、民は引き続き荒野からの声を聞き続けました。この申命記が最終的に編集されたのはモーセの時代から700年を経たバビロン捕囚の時代です。約束の地に入った民は祝福を受けてそこに王国を形成しますが、やがて神から離れ、その結果国が滅ぼされます。その滅びの中で、彼等は出発点であった荒野の経験を聞き直すために、モーセの言葉を編集しました。それが申命記です。モーセによって語られた神の言葉は700年後も聞かれたのです。「主は生きておられる」のです。
・私たちは3,000年前に主がモーセに語られた言葉を、今、ここで語られている言葉として聞きます。今日は私たちの教会の創立記念日です。1969年11月6日に篠崎キリスト教会は最初の礼拝をこの地で持ちました。それから42年、これまでに4人の牧師がこの教会に仕えて来ました。宮地先生が3年、坪井先生が14年、岡田先生が10年、そして川口が10年です。それぞれの牧師がそれぞれの賜物を持って教会に仕え、その役割が終わった時に、次の牧師が立てられて行きました。牧師は代わっても教会は立ち続けています。そして今後も立つのです。まさに詩編102篇が歌うようにです「すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては替えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません」。私に後何年の働きが許されているのか知りませんし、何ができるのかも知りません。ただ、許された時を働いて、後事は次の人に委ねていきます。どのような形でこの働きが終るのかは知りませんが、主が始められ事業ですから主が継続して下さる。その信仰を持って教会形成を共に行っていきたいと思います。

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