1.罪の始まり
・本日から創世記3章に入ります。3章は2章から連続する物語です。創世記2章では人間が男と女に創造され、園の中で神と共に暮らしていた事が書かれていました。3章では、その人間が誘惑に負けて神の戒めを破ってしまい、その結果、園を追放されるという、有名な失楽園物語が描かれています。そして教会は伝統的にこの創世記3章に「罪」の問題を見てきました。私たちも今日、この創世記3章を通して、罪とは何か、人間は何故罪を犯すのかを考えていきたいと思います。
・3章の冒頭では蛇が誘惑者として登場します。創世記は語ります「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」(3:1)。神は人間に言われました「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)。「園のすべての木から取って食べなさい」、人間に与えられたのは自由でした。ただしその自由は「善悪の知識の木からは食べてはならない」という戒めの中の自由でした。人間にはそれで十分でした。何故ならば「善悪の知識の木」から食べなくとも他に多くの食べ物があり、不足はなかったからです。しかし蛇はこの自由を逆転させて、不自由を全面に押し出すようにして人を誘惑します「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか。あなたはかわいそうだ、全く自由がないではないか」と。
・女は反論します「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2-3)。この発言には微妙な変化があります。神は人間に「園の中央にある木からは食べてはいけない」と言われましたが、「触れてはいけない」とは言われていません。人は制約が置かれたことに内心では不満で、その不満が、「触れてはいけない」という女の言葉の中に現れています。蛇は言葉を続けます「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(3:4-5)。ここでは、人間が神のように賢くなることを神は嫌っておられるのだという悪意ある解釈がなされています。そして女も神の禁止命令は不当だと考えるようになります。その心の動きが6節に表現されています「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」。「賢くなるように唆していた」、そして女は我慢できなくなって食べ、一緒にいた男にも渡したので、男も食べました。
・ここに人間の本質が見事に映し出されています。2章17節で人間には制約が置かれていました「善悪の知識の木からは食べてはならない」、それは制約なしには人間は共同生活を営むことができないからです。「人が一人でいるのは良くない」、共同生活を営む人間にとって、自由は制約があってこそ初めて成り立つことです。例えば「人を殺してはいけない」という制約のない社会では、人間は欲望のままに相手を殺し、混乱と無秩序がそこに生まれます。「共に生きる」には制約が不可欠のです。人間には、越えてはならない一線がある、しかし人間は限界が置かれるとその限界を嫌い、限界を乗り越えたいと思う存在です。それがここで、「禁断の木の実を食べる」という形で物語化されています。
・その木が「善悪を知る木」と名付けられているのは象徴的です。人間は全ての物事を二分法で考える習性を持っています。善悪、優劣、貧富、勝ち負け、幸不幸、この二分法をすべての事柄に拡大して考える時、そこに競争の中で勝ち残った者による世界の序列化、差別化が生まれていきます。ここで言う「善悪を知る」とは「物事の善悪をわきまえる」ということではなく、「何が善で何が悪かを支配者が決める」ことです。支配者が秩序を決めますから、勝った者、強い者が負けた者、弱い者を支配する弱肉強食の支配社会がそこに成立します。旧約のサムエル記や列王記を読みますと、ダビデを「神のように善と悪を聞き分ける」と表現し(サムエル記下14:17)、ソロモンたちを「神の子」と呼んでいます(サムエル記下7:14)。創世記3章が書かれた紀元前9世紀ごろには王の神格化が既に始まっていたのです。その中で創世記の著者は、そうではない、善悪を知る、神のようになって他者を支配する、そのことが罪の始まりなのだと主張しているのです。
2.罪の本質
・男と女は禁断の木の実を食べました。女は誘惑に勝つことができませんでした。善と悪を分別できるようになって何が悪いのか、賢くなることによって新しい可能性が開けるではないかという内心の声に勝つことができませんでした。女は実を食べ、共にいた男にも与えたので彼も食べます。男は女が食べてはいけないと命じられた木の実を食べた時、何も言わず傍観していました。そして女から勧められた時も、何も言わず食べました。エデンの園の悲劇は女が蛇に欺かれたことで始まり、その場に居合わせた男が無感動・無行動でそれを容認したしたことで拡大していきます。男も女と同罪なのです。
・その結果何が起きたかが3章7節に記述されています「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。神のようになりたいと思って禁断の木の実を食べた二人に起こったことは、「自分たちが裸であることを知った」ことでした。今まで神の方を向いていた視線が自分の方を向くと、自分が汚れていることを知り、その汚れを隠そうとしたと創世記は記述します。人間が次にとった態度は神の前から身を隠すことでした。創世記は語ります「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ(た)」(3:8)。人間の視線が自己を向いた、その瞬間から人間は神から身を隠すようになった、神から逃れようとした、そこに人間の罪があると創世記は語ります。
・その人に対し、神は呼びかけられます「どこにいるのか」(3:9)。人間は神からの呼びかけによって神に背く自分の姿を認識します。そのような人間を見て神は問われます「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)。その問いかけに男は答えます。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)。男は、「あの女が取って与えたので食べました」と弁解します。私はもらったから食べただけで、「悪いのはあの女です」と彼は言っています。「あの女」とは、彼の妻です。神が彼女を造り、連れて来て下さった時、「これこそ、私の骨の骨、私の肉の肉」と感動の叫びをあげた相手です。その相手を「あの女」と呼び、自分の罪の責任をなすりつけようとしています。さらにはそこを超えて「あなたが与えてくれたのが悪い」と責任を神にまで拡げています。責任を問われた女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と責任を蛇に押し付けます。さらには「蛇を造ったのはあなたではないか」という神への責めも女の言葉に含まれています。これが、神の下で生きるのをやめ、自分が主人になって生きようとした人間の姿です。自分のしたことの責任を自分で負うことをせず、ひたすら他の人のせいにしていく、それが人間の求めた自由だったと創世記記者は語っているのです。
・ここに罪の本質があります。もし人がここで自分の責任を認めたら、神はどうされたでしょうか。間違いなく人間を赦され、その結果、人間が神の下から追放されるという悲劇はなかったでしょう。つまり、神の戒めを破った、禁断の木の実を食べた、そのことに罪の本質があるのではないのです。罪の本質は、罪を認めようとせず、自己弁解し、他者に責任を押し付けようとした、否、他者にではなく神に責任を押し付けようとした、そこにあると物語は語っています。今回の原子力発電所事故で有名になった「想定外」という言葉、「想定外の地震や津波が来たから大事故になった。自分たちが悪いのではない」と関係者は弁明しました。創造物語の男と女が用いた同じ責任逃れの言葉が現在も使われています。
3.罪からの解放
・今日の招詞に詩編51:5−6を選びました。次のような言葉です「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」。詩篇51編はダビデが罪を悔い改め、神の赦しを求めた詩として有名です。ダビデの犯した罪については、サムエル記下11-12章に詳しく書かれています。当時、イスラエルはダビデ王の下に統一され、彼は近隣諸国を征服して領土を拡大し、王国は栄え始めていました。ある日の夕暮れ、ダビデは王宮の屋上から湯浴みする一人の婦人を見ます。彼女は兵士ウリヤの妻バテシバで、夫ウリヤはアンモン人との戦いのために出征し、不在でした。ダビデはその美しい婦人の裸体を見て、彼女を欲しくなり、王宮に呼び、寝て、その結果女は妊娠します。創世記3章の女が禁断の木の実を見て、欲しくなり、食べずには居られなかったのと同じです。ダビデに与えられたものは肉欲の誘いでした。
・女の妊娠に困惑したダビデは、夫ウリヤを前線から呼び戻し、妻と寝させることによって自分の犯した悪をごまかそうとしますが、ウリヤは断ります。ダビデの目論見は失敗し、彼は前線の司令官に手紙を書き、ウリヤを最前線に立たせて死なせるように命じ、ウリヤは死にます。サムエル記はこの事実を淡々と述べた後に記します「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(サムエル下11:27)。そして問責のために預言者ナタンが遣わされます。ナタンはダビデに一つの物語を語ります。それは、「多くの羊や牛を持つ豊かな男が自分の羊をつぶすのを惜しみ、一匹の羊しか持たない男の羊を取り上げ、それを客に出した」という話でした。ダビデは叫びます「そのような無慈悲なことをした男は死罪にされるべきだ」。ダビデにナタンは言います「その男はあなただ」(同12:7)。ナタンは主の言葉を続けます「あなたをイスラエルの王にしたのは私であり、あなたを恵んできたのも私である。それなのに何故、ウリヤの妻を欲してウリヤを殺すような悪を為したのか」(同12:7-10)。この言葉の前にダビデは頭をたれ、告白します「私は主に罪を犯しました」(同12:13)。
・ダビデの悔い改めの言葉を受けて、詩編51篇が始まります。彼は祈ります「神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(詩編51:3-4)。ダビデの祈りは続きます。その祈りが今日の招詞です。彼は言います「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」。ダビデはウリヤの妻を横取りし、ウリヤを殺しました。それは人に犯した罪です。しかし、突き詰めると神に逆らう行為です。だからダビデは「あなたに背いた」、「あなたの前に罪を犯した」と告白します。
・神はこのダビデを赦し、王国の人々もダビデを慕いました。それはダビデがイスラエルを繁栄に導いた王であったからではなく、王であるにもかかわらず、神の前に罪を認め、悔い改めたからです。創世記3章に描かれた人間の罪の本質も、戒めを破ったことにあるのではなく、そのことを神の前に認めず、責任を逃れようとしたことにあります。神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。キリスト者は罪を犯した時、それを神に問われ、裁かれ、苦しみます。その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「私が悪いのではない」と言い逃れをするために、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。「私は罪を犯した」と悔改めた時、神の祝福が始まることを聖書は繰り返し、私たちに伝えます。誰もが罪を犯す、その罪を心から悔い改めた時こそ、罪から解放される時なのです。