1.中風の人のいやし
・受難節第五主日の今日、私たちはイエスが中風の人をいやされたマルコ2章の物語を手がかりに、病のいやしと罪の赦しの問題を考えてみます。イエスは言葉の説教をされると同時に、多くのいやしを行われました。らい病人がいやされ、歩けない人の足が治されました。人々はその不思議な業を見て、この人には神が特別な力を与えておられると思い、イエスの所に押しかけてきました。イエスがシモンの家で人々に話をされていた時も、たくさんの人々が押し寄せ、家の外まで人があふれていました。そこに、四人の男に担がれて、中風の人が床に乗せられて運ばれてきました。イエスの評判を聞き、この人なら病を治して下さるかもしれないと思い、近隣の人に頼んで、運んでもらったのでしょう。中風とは「麻痺」と言う意味で、何らかの理由で体が麻痺になり、起き上がることも出来ないようになった、今日でいう脳卒中の後遺症だったのかもしれません。
・病のいやしは人間の切なる願いです。今日でも、難病にかかった人は、評判の医者がいると聞けば全国どこへでも出かけ、アガクリスという薬が癌に効くと聞けばどんなに高価でもそれを求めます。臓器移植で治るのであれば、アメリカへでも中国へでも行きます。それほど、病は苦しいものであり、いやしを願う心は強いのです。この人もいろいろな医者にかかり薬を飲んだのでしょうが、何の効果もありませんでした。イエスのいやしの評判を聞き、もしかしたらとの期待を込めて、ここまで来ました。ところが、家は戸口まで人があふれて中に入ることは出来ません。しかし、それくらいではあきらめません。この人は四人の男に頼んで、屋根を壊して、自分をイエスの前に降ろして欲しいと願いました。パレスチナの屋根は平らで、木の骨組みの上に粘土がかぶせてあるだけです。外側には屋上に上がるための階段もありました。四人の男たちは床を担いだまま、屋根に上り、その屋根を壊し、穴から、この病人をつり下ろしました。中にいた人たちは、驚きました。イエスも驚かれたでしょう。しかし、驚きと同時に、そこまでしていやしを求めてきたこの人の熱心さに、感動されました。
・イエスはもうもうたるほこりと共に降りて来た人に言われました「子よ、あなたの罪は赦される」(2:5)。そこにいた律法学者はイエスの言葉を聞いて、つぶやきました「神お一人の他に罪を赦すことの出来るお方はいない。この男は神を冒涜している」。イエスはそれを悟って言われました「中風の人に『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて床をとって歩け』というのとどちらがたやすいか」。「罪が赦された」と宣言されても、誰もその結果を検証できません。言うのはたやすいのです。しかし「起きて歩け」と言うのは難しいことです。歩けといって歩けなければ、言った人はうそをついたことになります。イエスは続けられました「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事をあなたが知るために、私は言おう『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」。中風の人の病はいやされ、床から起き上がり、歩き始めました。
2.人が求めるのは病のいやしだ
・イエスは病のいやしに先立って、罪の赦しを宣言されました。何故でしょうか。「罪の赦し」と「病のいやし」はどちらが難しいのか、あるいはどちらが大切なのかということが今日の私たちの主題です。私たちが人生において求めることは、自分の力ではどうしようもない病気や苦難が取り除かれることです。失業すれば、生活の困難の問題が生じます。子供が不登校になれば、家庭は荒れます。元気な人が病気で倒れれば、生きる力さえなくなります。生きることは苦難の連続です。その現実の中で、私たちは現実を打ち破る力、病をいやし、困難を取り除いてくれる力を求めています。ですから、シモンの家にはいやしを求める人々があふれ、教会にもいやしを求めて人が訪ねて来ます。私たちが求めるのは、目に見えない罪の赦しではなく、目に見える病や不幸のいやしです。
・しかし、イエスは中風の人に、まず罪の赦しを語られました。当時のユダヤ社会では、病気は「罪を犯した人間に対する神の罰だ」と考えられていました。これはユダヤ教だけではなく、多くの宗教にある「因果応報」の考え方です。イエスはこれをきっぱりと否定されます「あなたの罪は赦された」、あなたは神の怒りの下にあるから病気になったのではない。父なる神はそのような方ではない。神はあなたを愛しておられる」と言われたのです。このたびの東日本大震災に関連し、「これは天罰だ」とうそぶく人も居ました。天罰、その言葉の中にも「因果応報」的な視点があります。しかし聖書は震災を天罰とは呼びません。イエスは因果応報を明らかに否定しておられたことを知る必要があります。
・イエスは父なる神の愛を示すために、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。家に帰る、社会生活に復帰しなさいとの意味です。イエスは別の箇所では、病のいやしを「神の御業があらわれるため」(ヨハネ9:3)と言われます。「神の御業が現れるため、神は人を罰する方ではなく、憐れまれる方である、その憐れみをあなた方が見ることができるように」と、イエスは病人を癒されるのです。イエスの癒しの力は、病む心を共感する力から生まれます。イエスがいやされた人々は、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々でした。触れてはいけないと禁止されていたらい病人を、「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、いやされます(マルコ1:40-45)。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、死体に触れるなという当時のタブーを冒してまで「棺に手を触れ」、彼を生き返らせます(ルカ7:11-17)。「いやし」の行為は、禁止されていた安息日にも行われました(マルコ3:1-6)。そのことにより、イエスは祭司や律法学者から異端とされ、捕らえられ、十字架で殺されていきます。イエスは自らが痛むことにより、病む者たちの痛みを共有されていきました。「あなたの罪は赦された」という宣言は、「その罪は私が代わりに引き受ける」という決意のもとで為されているのです。
3.いやしと赦しと
・いやしと救いの問題をもう少し掘り下げて考えるために、別の聖書箇所を見てみましょう。今日の招詞にルカ17:18-19を選びました。次のような言葉です「そこで、イエスは言われた『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか』。それから、イエスはその人に言われた『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』」。イエスはエルサレムに向かう途上で「サマリアとガリラヤの間」を通られました。その時、「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて『イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんでください』と言った」とルカは記します(ルカ17:12-13)。重い皮膚病、口語訳は「らい病」と訳しています。律法では、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13:45-46)と規定しています。
・イエスは病人の苦しみの叫びを聞かれ、彼らを憐れました。そして「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(17:14)と言われました。当時の社会では、肉体的に病気が治っても、祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができなかったのです。10人の人々はそれぞれ祭司のところに向かいましたが、その途中で、病がいやされました。
・病気が治った人々はもちろん、喜んだはずです。しかし、祭司のところに行き、「感謝し」、「賛美するために戻ってきた」のはサマリア人だけでした。この10人は皆「清くされた」のですが、1人のサマリア人だけが「自分がいやされたのを知って」(17:15)と言われています。彼はイエスというユダヤ人が民族の壁を超えて、異邦人の自分にも恵んでくださったことの中に、ほかの人以上の感謝を感じたのかもしれません。しかし残りの9人は戻りませんでした。その戻ったサマリア人に言われた言葉が招詞の言葉です「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」。ここにいやしの持つ限界点が明らかにされています。人はいやされたら喜び、感謝もするでしょう。しかしそれで終わってしまうのです。もうイエスの所に、あるいは神の所に戻らない。治ったからです。しかし、いやされた肉体はまた死によって滅んでいきます。イエスはサマリア人に言われました「あなたの信仰があなたを救った」。他の9人はこの罪の赦しを受ける機会を無くしました。
・「あなたの信仰があなたを救った」、重い皮膚病だったこのサマリア人の「信仰」とは何でしょうか。それは、この人が自分の病気が治ったことを、「神がいやしてくださったこと」として受け取ったということです。自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見した、自分の現実の中に神の働きを見た、それがここでいう信仰です。この信仰が彼を救った。
・イエスは言われました「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る」(マタイ10:39)。人が求めるのは信仰の報酬です。病がいやされたい、この苦しみから救われたい、だから信じる、多くの宗教はそれに応えて、病や苦難からのいやしを強調します。しかし、聖書はそのような信仰を「宗教的自己追求」、あるいは「偶像崇拝」だと否定します。マルコが伝えるのも同じです。中風の人の病がいやされたことがマルコ2章の中心ではありません。そうではなく「罪が赦されたこと」こそ、最大の恵みであり、体がいやされるかどうかは二次的な問題に過ぎないということです。
・前に三浦綾子さんが大腸癌になられたときの言葉をご紹介したことがあります。彼女は次にように語られています「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。この信仰、神が共にいてくださることこそ幸いなのだという信仰こそ、聖書の信仰です。「いやしから救いへ」、聖書が語る言葉を今日は聞きたいと思います。