1.「子よ、あなたの罪は赦される」
・毎月第四主日は水口が宣教を担当しております。昨年4月の就任以降、マタイ福音書「山上の説教」を読んできましたが、先月の「主の祈り」で一応の区切りが付きましたので、今月から聖書日課に従って宣教させていただきます。篠崎キリスト教会では2009年1月からマルコ福音書を通じてイエスの宣教を学んでいます。イエスは人々に「神の国の福音」を宣べ伝え、「神の国が来たしるし」として、人々の病を癒され、悪霊を追い出されました。当時の人々は、病気は人間の罪のためだと理解していました。病と罪が関連付けられていますから、「病の癒し」は、必然的に「罪の赦し」の意味を持ってきます。イエスは「父なる神はあなた方を愛しておられるのであって決して呪われているのではない。そのしるしとして父はあなたの病を癒されるであろう」として、癒しの業を行われました。
・しかしイエスの働きを喜ばない人々もいました。エルサレムから来た律法学者たちで、彼らは病気は罪の故であり、病気の人々は神から呪われた罪人だとして社会から排除していました。それが神の御心だと信じていたのです。その人々にとって、イエスの行われた病の癒し=罪の赦しは、「神の名を冒涜する」涜神行為そのものでした。ユダヤ当局はイエスを監視するためにエルサレムから律法学者を派遣し、彼らはイエスとしばしば論争します。今日読みますマルコ2:1-12の個所も、単なる「中風の人の癒し」物語ではなく、律法学者との論争を通じて、「イエスとはどなたか」が浮き彫りになる物語構成になっています。
・物語を読んでいきましょう。マルコは記します「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」(2:1-2)。この家とはおそらくイエスがガリラヤ伝道の拠点にされておられたシモン・ペテロの家であったのでしょう。マルコは続けます「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(2:2-4)。
・戸口に人があふれ、病人をイエスのところに運び込めなかったので、彼らは屋根に上り、屋根に穴を開けてそこから病人をつり下ろしたというのです。日本の家屋ではこんなことは出来ません。しかし当時のユダヤ家屋は天井の梁の上に木の枝や柴を編んだものを渡し、その上に粘土の覆いを乗せた簡単な構造でしたから、こんなことが出来たのです。それにしても乱暴な行為です。この物語はペテロが弟子のマルコに話したことが記述の背景にあるといわれています。ペテロにしても、これまで聞いたことの無い非常識で突飛な話、同時にそこまでしてイエスの癒しを求めた人々の信仰を見た、忘れがたい出来事だったのでしょう。
・「中風=パラリュティコス」とは「不随のもの」と言う意味で、何らかの理由で身体麻痺になり、起き上がることも出来ない状態になった。今日でいう脳溢血、あるいは脳梗塞の後遺症で苦しんでいた人かもしれません。彼はイエスの癒しの評判を聞き、この人ならば治してくれるかもしれないとの期待を持って来ました。ところが、家は戸口まで人があふれて中に入ることは出来ません。しかし、それくらいではあきらめません。彼は四人の担ぎ手に頼んで、屋根から自分をイエスの前に降ろして欲しいと願いました。イエスも驚かれたでしょう。しかし、驚きと同時に、そこまでして癒しを求めてきたこの人の熱心さの中に、信仰を見られました。ある説教者はこの物語を「救いへの突進」と名付けます。救いへの突進、信仰は文字通り「壁を突き破る力」を持っているのです。
・イエスはもうもうたるほこりと共に降りて来た人に言われました「子よ、あなたの罪は赦された」(2:5)。イエスは「病が癒された」とは言わずに、「罪は赦された」と言われました。「神はあなたの罪を赦された」との意味です。病が人間の罪の結果として生じるとされた当時においては、霊的回復が身体の健康に不可欠だと考えられていたのです。今日でも状況は同じです。現代の精神医学が明らかにしましたのは、「人間精神に潜在する根深い罪悪感や自己嫌悪感が身体機能の麻痺の原因になりうる」と言うことです。女性連合機関紙「世の光」2008年12月号に、宮崎丸山町教会の金子千嘉世牧師が「父のこと」と題する証しをされていますが、それを読みますと、罪の赦しが身体の回復につながった一つの例を見ることが出来ます。金子先生の父親は長い間船乗りとして生活されていましたが、晩年には多発性脳梗塞になられ、また認知症も出て、夜になると徘徊し、病院ももてあまして追い出されたそうです。先生は書きます「自宅に引き取ったその日から三日間、父は一睡もせず夜になると元船長だった父は“魚が来たぞ、起きろ”と怒鳴り、家中の窓をたたきます。仕方が無いので、母と私は網を引くまねをしたり、魚を数えるふりをして夜を過ごしました。私も母も限界でした。ところが三日目の朝、父がすっきりした顔で“おはよ”というのです。そして“お前のイエス様が真っ暗な穴の中にいるわしの手をぐっと握って引っ張りあげてくれた。頭がすっきりした”と言うではありませんか。私は半信半疑ながら、とりあえず感謝のお祈りをしました。“天のお父様”と私が言うと、父がその後に続いて“天のお父様”とお祈りしたのです。気が付いたら、母がエプロンをはずして一緒に父の横でお祈りをしていました」。
・金子先生の証しは続きます「父が召される半年前、父は病気が再発し入院生活をしていましたので家族そろって父を見舞いに行きました。その帰りがけ、父は私を呼び止めて言いました“わしも天国に入れてもらえるのか”と聞くのです。“なんで”と問い返すと、父は“自分は戦時中、食糧輸送団の船団長をしていて、空爆を受けてわしの舟だけが助かった。わしは残りの船の仲間を助けることが出来なかった。あれたちにも家族がおった。わしは死ぬのも怖いが、生きているのもつらかった。幸せになったらいかんと思って今まで生きてきた。こんなわしでもイエス様は赦してくれるんか。天国にいれてもらえるんか”。私は十字架のイエス様のこと、罪の赦しのこと、信じる者は皆御国にお招きくださるイエス様の福音を伝えました。父は“ありがたい”と涙をこぼし、今までに見たことの無いような笑顔を見せてくれました。その日が父の笑顔を見た最後の日となりました」。罪の赦しが金子先生の父親を癒しに導いたのです。
2.罪を赦す権威
・イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。そこにいた律法学者はイエスの言葉を聞いて、つぶやきました「神お一人の他に罪を赦すことの出来るお方はいない。この男は神を冒涜している」(2:7)。イエスはそれを悟って言われました「中風の人に『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて床をとって歩け』というのとどちらがたやすいか」(2:9)。「罪が赦された」と宣言されても、誰もその結果を検証できません。しかし「起きて歩け」と言うのは難しい。歩けといって歩けなければ、言った人はうそをついたことになります。イエスは続けられました「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事をあなたが知るために、私は言う『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」(2:10)。中風の人の病はいやされ、床から起き上がり、歩き始めました。
・イエスは病のいやしに先立って、罪の赦しを言われました。何故でしょうか。「罪の赦し」と「病の癒し」のどちらが大切なのかと言う問題が今日の私たちの主題です。私たちが人生において求めることは、自分の力ではどうしようもない困難や苦難が取り除かれることです。失業すれば、生活の困難の問題が生じます。子供が不登校になれば、家庭は荒れます。元気な人が病気で倒れれば、生きる力さえなくなります。生きることは苦難の連続です。その現実の中で、私たちは現実を打ち破る力、病を癒し、困難を取り除いてくれる力を求めています。だから、シモンの家には癒しを求める人々があふれ、教会にも人が訪ねて来ます。数百人、数千人が礼拝に集う教会では、多くの場合、病の癒しが語られ、癒しの祈りが行われています。私たちが求めているのは、目に見えない罪の赦しではなく、目に見える病や不幸の癒しです。
・イエスは中風の人に、まず罪の赦しを語られました。ユダヤの宗教では「病は罪の結果であり、病人は罪人だ」と切り捨てていました。ユダヤ人は、神を「天にいます裁き主」と理解していました。神を「人を罰する万能者」と受け止めていたのです。しかし、イエスは言われます「父なる神はそのような方ではない。神はあなたを子として愛して下さる、そのために私を遣わされた。そのしるしとして、神はあなたの病を癒されるであろう」と。イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。「父はあなたを罰しない、それは私が一番知っている、だから私が父の名においてあなたを赦す」。
3.罪を赦し、病を癒す力
・今日の招詞に詩篇41:4-5を選びました。次のような言葉です「主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。私は申します『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯した私を癒してください』」。詩篇の作者は自分の罪を認め、最初に「罪の赦し」を求め、次に「病の癒し」を求めています。マルコ2章でイエスの前に中風の人を連れてきた人々もまた、自分たちは罪人である事を認め、イエスの前にひざまずきました。その結果、罪から解放され、自由が与えられました。他方、律法学者たちは、自分たちは神の前に正しい、罪はないとして、イエスの権威を認めませんでした。その結果、彼らは神の子に敵対し、やがては神の子を十字架につけます。しかしイエスを殺しても彼らには何の平安も訪れず、やがて歴史の中に消えていきました。「罪とは神との関係の破れ」であり、その回復こそ「罪の赦し」です。そしてイエスは自らが十字架で死ぬことにより、この赦しの権能を神から委ねられたのです。イエスに罪を赦す権能が与えられたのは彼がそのために死なれるからです。イザヤは言いました「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、私は多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ」(イザヤ53:11-12)。
・イエスは言われました「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(3:28)。私たちは神の赦しの中にあるのです。ですから、教会はイエスの権威を継承して、罪の赦しを宣言します。「神はあなたを赦して下さった、あなたは神の子とされた、その事を喜びなさい」と伝えます。人は求めます「イエスは神の国のしるしとして病を癒して下さいました。あなたも私の病を癒して下さい。そうすれば信じます」。赦しという目に見えないものではなく、癒しという見えるしるしを下さいと人々は望みます。ここで、私たちは、「癒しはあくまでも神の出来事である」ということを伝えなければいけません。神は必要な時には病を癒し、また必要な時には病をそのままにされます。河野進牧師は歌いました「病まなければ ささげ得ない祈りがある 。病まなければ 信じ得ない奇跡がある 。病まなければ 聞き得ない御言葉がある 。病まなければ 近づき得ない聖所がある 。病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある 。おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない」(河野進「病まなければ」)。病が祝福になることがある、癒されないこともまた神の恵みとして受け止めていくのが聖書の信仰です。
・では、癒しは教会の業ではないとして、かかわる必要はないのでしょうか。イエスは癒しを求めてきた中風の人を拒否されませんでした。私たちも自分たちに出来る癒しの業に取り組む必要があると思います。私たちは足の不自由な人に「起きて歩け」ということは出来ません。しかし、足の不自由な人が、教会に来ることが出来るように、玄関の段差をなくし、車椅子のままトイレを使えるように改造することは出来ます。私たちは、病気で寝ている人の病気を治すことは出来ません。しかし、寝ている人を訪ね、祈り、その枕元に週報をおいて帰る事は出来ます。ペテロは自分の家の屋根が壊されても文句を言いませんでした。私たちも自分の家を解放して、家庭集会を行うことは出来ます。私たちはイエスのように癒しを行うことは出来ませんが、イエスの前に中風の人を運んだ四人の男にはなりうるのです。イエスの前に人を運ぶ、その先は、赦しと癒しの権能を持たれるイエスにお委ねすることは出来るのです。教会は多くの癒しの業を行うことが出来ることを覚えたいと思います。