1.神に従うことと人に従うこと
・篠崎キリスト教会牧師の川口です。今日は、講壇交換のため、経堂バプテスト教会におうかがいいたしました。私は働きながら東京バプテスト神学校という夜間神学校に4年間学び、50歳の時に卒業しました。それを契機に、勤めていた会社を辞め、東京神学大学に再入学し、学生として学びながら、幡ヶ谷伝道所の牧師に就任しました。幡ヶ谷は経堂と同じく東京南地区に所属していますので、南地区牧師会で始めて間渕先生とお会いしました。6年前のことです。そして経堂教会のことをいろいろ教えていただきました。その後、私は幡ヶ谷伝道所の牧師を辞めて、江戸川区にあります篠崎教会の牧師になりました。経堂教会と篠崎教会は似たような歴史を持った教会だと思います。かつては先人たちの努力によって50人が礼拝に集まる祝福を与えられましたが、その後不幸な出来事が重なり、教会員が散らされ、厳しい状況に追い込まれました。共に再建途上にある教会牧師として、互いの教会に対して、語るべき言葉を持っているのではないかと間渕先生とご相談し、今日の講壇交換になりました。
・今日、私たちは使徒言行録4章より御言葉をいただきます。ペンテコステの日に聖霊が与えられて、ペテロは人々に語り始め、ペテロの説教を通して、3千人の人が悔い改め、教会が生まれました。その教会に人々は集まり、祈り、力を与えられて、宣教を始めました。ペテロたちが祈りを捧げるために神殿に行った時、ある出来事が起こりました。神殿の門のところに足の不自由な人がいて、ペテロたちに物乞いをしたのです。ペテロは彼に言いました「私には金や銀はないが、あるものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」。歩けなかった人が歩けるようになりました。出来事を見て驚いた人々が集まって来た時、ペテロは語り始めます「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させて下さいました。・・・あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました・・・イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人をいやしたのです」(使徒3:15-16)。人々は目の前で足の不自由な人が歩き出した奇跡を見て、ペテロの言葉を信じました。この日に改心した人の数は5千人であったと使徒言行録は記しています(4:4)。
・これはイエスを捕らえ、処刑した人々にとっては耐えられない出来事でした。彼らは神殿の庭で語るペテロとヨハネを捕らえて言います「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(4:7)。ユダヤ当局者は思いました「神殿は聖なる場所だ。その神殿を汚した罪で私たちはイエスと言う男を捕らえて処刑した。それから2ヶ月もたたないうちに、あの男の弟子であるお前たちが『イエスはよみがえった』などのたわごとを説教して、民衆を惑わしている。お前たちを許すわけにはいかない」。彼らはイエスを処刑することによって、事は終わったと思っていました。弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去りました。ところがその弟子たちがどこからか現れ、「イエスは復活した、私たちはその証人だ」と言い始め、民衆がそれを信じ始めている。これは危険だ、何とかしなければいけない。
・当局者は、弟子たちを捕まえて脅せば、彼らはすぐに黙ると思っていました。しかし、驚くべきことに、その彼らが反論を始めます。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・・私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4:10−12)。無学なガリラヤの漁師たちが、ユダヤ議会の議員たちに説教をし始めたのです。聖霊がペテロに語る力を与えました。
2.証しする教会
・ペテロは50日前には捕らえられることを恐れ、逃げ隠れしていました。その彼が、イエスが死刑宣告を受けた議会のまさにその同じ場所に立ち、イエスのために弁明を始めています。権力者たちは、二人の無学な男たちによって追い詰められてしまいました。もし、彼らを殺せば、二人を支持する民衆は騒乱を起こすでしょう。二人はその言葉と業で民衆の心を捕らえてしまったからです。彼らに出来ることは、二人を脅して釈放することだけでした。彼らは弟子たちに言います「今後、あの名によって誰にも話してはいけない」。しかし、彼らはまたもや負かされます。ペテロは言います「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4:19-20)。
・イエスが権力者たちと衝突したように、イエスに従うものも彼らと衝突します。権力者たちはイエスを黙らせようとして、暴力でイエスを殺し、その口を封じました。しかし、今、イエスの弟子たちが立って彼らに不服を唱えます。権力者たちは、彼らの口を封じるために、弟子たちをも殺そうとするでしょう。しかし彼らの口を封じることは出来ません。彼らが語っているのではなく、神が語っておられるからです。神の言葉を封じ込めることは出来ません。
・釈放された二人は仲間のところに帰りました。仲間の信徒たちは、一つの家に集まり、二人の無事を祈りながら待っていました。二人を迎えて、人々は感謝の祈りをささげます。その祈りが4:24からです。よく見ると、それは二人を無事に帰してくれたことへの感謝の祈りではありません。そうではなく、二人が権力者の前で恐れることなく証しすることが出来たことへの感謝の祈りです。人々はユダヤ当局からの迫害がこれで終わるとは考えていません。むしろ、十字架で殺されたイエスを救い主であると宣教すれば、さらなる迫害が来ると思っています。彼らが祈るのは「迫害を遠ざけて下さい」という神の加護を求める祈りではなく、「迫害があるかもしれませんが、その中で大胆に御言葉を語る力を与えて下さい」との祈りです。
・これが教会の祈りです。「迫害を止めて下さい、私たちを災いから守って下さい」と祈るではなく、「あなたは迫害を通して私たちを導こうとされていますから、私たちがその導きに応えて、臆することなく言葉を語っていくことが出来ますように」と祈ります。迫害や災いも神が下さるものであれば、それを通じて私たちを導こうとしておられるのであれば、弱い私たちを強めて下さいとの祈りです。教会は金や銀を持っていません。しかし、イエスの名による力を持っています。その力は死者を生き返らせることも可能とするものです。癒しと不思議な業は神の働きです。しかし、その神の働きを証しし、宣べ伝えることは教会の業なのです。
3.不幸な過去を祝福への試練として
・最初に経堂教会と篠崎教会は似ていると話しました。バプテスト連盟の教勢分析を見ますと、1990年当時、双方とも礼拝出席者は40~50名です。これが2000年になると双方とも20名以下に落ちます。経堂教会も長い歴史の中で順調な時、みんなが喜べる時もあったと思います。しかし、悲しい出来事もあったし、その出来事は今でも尾を引いているのかもしれない。しかし、神はユダヤ教徒からの迫害を通して、初代教会の心を一つにされました。経堂教会もこれまでの悲しい出来事を通して、神の導きの中にあると思います。災いや試練は、私たちを砕くためでなく、私たちを祝福に導くための器として与えられています。私たちが今祈るべきは「この災いを取り除いて下さい」ではなく、「この困難の中で御言葉を語り続けていく力を与えて下さい」という祈りです。
・ヘブル2:4-6をご一緒に読みましょう。次のような言葉です「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである』」。ヘブル書は、迫害の中で書かれた書簡です。著者は、迫害で弱められた教会に対して語ります「この迫害は神があなたがたを鍛錬するために与えられたものだ。鍛錬は当初は苦しいかもしれないが、この苦しみを通してあなたがたの信仰が鍛えられ、聖められていく。父は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を鞭打たれる。だから負けるな。なえた手と弱くなった膝をまっすぐにせよ」。
・教会は選ばれた者の仲良しクラブではありません。仲良しクラブであれば「どうか災いを取り去って下さい」という弱々しい祈りしか出来ません。初代教会は何と祈ったのか、「彼らの脅しの中で大胆に御言葉を語る力を与えて下さい」と祈ったのです。私たちは神の業を証しするためにここに集められていいます。そのことを忘れた時、教会は力をなくすことを、今日の使徒言行録は示しています。経堂教会と篠崎教会に与えられている試練は、神から与えられています。神は私たちを滅ぼすためでなく、祝福されるために試練を与えておられます。私たちが為すべきことは、明らかです。主はパウロに言われました「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。・・・この町には、私の民が大勢いるからだ」(使徒言行録18:9-10)。経堂にも篠崎にも主の民は大勢おられる。私たちは彼らに証しをする力をいただくために、今日ここに集められたのです。