江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年6月11日説教(ローマ8:12-17、死から命へ)

投稿日:2006年6月11日 更新日:

1.肉の思いから霊の思いへ

・先週、私たちはペンテコステ(聖霊降臨祭)をお祝いしました。ペンテコステはクリスマス、イースターと並ぶ教会の大事なお祭りですが、クリスマス、イースターと違って、なじみの薄い時で、特段のお祝いもしません。何故でしょうか。それはペンテコステ=聖霊降臨の意味が良くわからない、そもそも聖霊とは何かがわかりにくいからかもしれません。だから、聖霊をいただくことの意味を理解できない、ペンテコステを大事な日として喜べない。私たちは先週から聖霊降臨節に入っています。今日は聖霊降臨節第二主日です。聖霊とは何か、聖霊をいただくと、私たちの人生がどのように変わるのかを、今日はローマ8章から、共に学びます。
・先週学びましたように、イエスは故郷のナザレで伝道を始められた時、次のように宣言されました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ 4:18-19)。人々は罪のために死の縄目の中にいる、その人々を解放し、自由を与えるために、私は来たとイエスは宣言されています。そして、その業を行うために十字架で死なれました。パウロはその十字架によって、私たちは罪と死から自由にされたのだと言います。その箇所がローマ8章1-2節です「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。聖霊をいただくことによって、私たちは肉の思いから解放された、その肉の思いこそが人を罪と死に導いていたとパウロは言っています。
・肉の思いとは何か、それは人が自己を中心に考える思いです。その典型を私たちは創世記のアダムとエバの物語に見ることが出来ます。エバが造られたとき、アダムは感激して叫びます「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」(創世記2:23)。孤独に生きる自分に配偶者が与えられた、この女性と共にこれから生きていこうとアダムは喜びます。しかしエバが罪を犯し、その罪により自分が責められた時、アダムは豹変します「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木からとって与えたので、食べました」(同3:12)。「あなたが与えたあの女が私をそそのかしたのです、あの女が悪いのです」とアダムは弁解しています。「骨の骨、肉の肉」とまで愛した妻も、具合が悪くなると捨てる、ここに人間の本質、罪の姿があります。ボスニア内戦が何故起こったのか。ボスニアではセルビア人もボスニア人も、キリスト教徒もイスラム教徒も、隣人として共に暮らしていましたが、ある日、誰かがセルビア人こそ国の誇り、イスラム教徒は邪教徒だと叫び始めると、隣人同士が殺し合いを始めました。まさに肉の思いは罪を導き、罪は人を死に至らせます。
・このような死の思いからあなた方は解放されたのだとパウロは叫んでいます。パウロは言います「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマ8:6)。あなた方はバプテスマを通して、聖霊、キリストの霊をいただいた、霊をいただいたあなた方は肉の罪から、死から解放されている、だから「霊によって体の仕業を絶ちなさい」とパウロは勧めます。

2.奴隷から神の子へ

・パウロは続けます「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(8:14-15)。あなた方はかつては罪の奴隷であったが、今は神の子とされたのだとパウロは言います。奴隷から神の子となる、これは私たちの存在の意味が根本的に変えられることを意味します。奴隷は主人のために働く存在です。その主人がどのようにやさしく思いやりがあっても、奴隷は奴隷であり、その価値は働きによって計られます。良い奴隷とは良く働く者であり、働けなくなった奴隷は価値を失い、捨てられます。ヒトラー時代のドイツでは、心身障害者は「生きるに値しない生命」として、安楽死を強要されました。戦争という非常時において役立たない者を養うパンはないとして、抹殺されたのです。この状況は現代日本にもあります。一生懸命に働いても仕事の能率の悪い人は会社からリストラの対象として捨てられます。どんなに実績があっても体力の落ちたスポーツ選手は引退を迫られます。国会議員も選挙に落ちればただの人です。競争社会においては、人は人格ではなく、価値で評価され、価値の無い者は捨てられます。競争社会では多くの人が社会の奴隷にさせられていきます。
・その奴隷であった私たちを、神は「子」としてくださったとパウロは述べます。子の存在価値は子であるという存在そのものにあります。働けなくなっても、役に立たなくなっても、子であるゆえに、親はその子を尊びます。私たちが子にされたということは、私たちが働きや行為によってではなく、存在によって尊ばれ、受け入れられ、価値在るものとされる、その喜びの中に生きることが許されているということです。
・パウロは筆を進めます「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。アッバ、子供が父親に呼びかける時の言葉です。「お父さん」、「父さん」、「ダデイ」、という意味でしょう。当時のユダヤ人はこの言葉を神に用いることをしませんでした。神は天にいます方、私たちを支配し、罪を裁く方、とても「お父さん」と呼びかける存在ではありません。しかし、イエスは神を「アッバ、お父さん」と呼ばれました。イエスはアラム語を使われましたが、そのアラム語での呼びかけが教会の中に継承されました。子とされるということは神を「お父さん」と呼べるようになることです。お父さんであれば自分を愛してくれる、そのような信頼関係が成り立ちます。子であれば父の相続人になります。父が持っている命をいただきます。死ぬべき私たちが死なない存在に変えられる、復活の命をいただくという希望を持つことが出来るようになります。

3.死から命へ

・今日の招詞として哀歌3:28−33を選びました。みなさんも良くご存知の言葉だと思います。「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・ヒトラー時代のドイツでは、心身障害者は「生きるに値しない生命」として、安楽死を強要されたという話をしました。20万人の身障者が殺されたといわれています。多くの教会は見て見ぬふりをしました。しかし、ベーテルという教会が運営していた施設では一人の患者も死なせませんでした。命をかけてナチの命令を拒んだのです。ベーテルを作ったのはボーデルシュヴィングという牧師ですが、彼は四人の子供がいました。ある時、疫病が流行し、わずか2週間の間に子供たちが次々に死ぬという悲劇に見舞われました。彼は打ちのめされ、もがいた末、哀歌の言葉の中に救いを見出しました。「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。・・・人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」、四人の子供が自分の手から天に召されて行った、このことを通して神は私に何かを命じておられる、自分の子供たちは「神の栄光の子」とされた、しかし自分の周りにはまだ神の栄光を受けていない子供たちがいる。その子供たちに仕えるために4人の子を天に召されたのだ、そう思ったボーデルシュヴィングは西ドイツのビーレフェルトの町の郊外に小さな家を求めて、そこにてんかんの子供たち5人を集めて、共同の生活を始めます。1867年のことです。当時、てんかんは差別の対象になっていた難病でした。彼はその家をベーテル、神の家と名づけました。
・施設は発展し、事業は甥のボーデルシュヴィング牧師に引き継がれていきます。ベーテルはやがて路上生活者や心の病をもつ人々なども受け入れて発展し、施設全体が一つの町にまでなっていきました。1930年代には入院・収容患者は3000人にもなりました。1939年ドイツ内務省は全国の病院、療養所に対して、心身障害者の特別施設への移送を命じました。その施設で障害者は殺されていきます。ベーテルにも国からの移送命令が来ましたが、二代目のボーデルシュヴィング牧師はこれを拒否し、逮捕されました。「障害者を殺すなら、まず私たちを殺してからにしてほしい」と述べたそうです。人は神の哀れみによって奴隷から神の子とされた、生きるに値しない命はないと神は言われているとして、彼らは戦い続けました。
・ナチス・ドイツという異様な軍事国家の重圧の中で、このような抵抗が成し遂げられたのは、奇跡的な出来事です。この奇跡的な出来事が、一人の牧師が4人の子を失うという悲劇を通して起こされたことに私たちは注目する必要があります。四人の子供たちの死が数十人、数百人の命を救うに至ったのです。聖霊はこのようなことを可能にする神の力です。そして私たちもこのような聖霊を受けて神の子とされたとパウロは証言しています。アダムは「あの女が悪いです」と自分の責任を回避しましたが、アダムの子孫のボーデルシュヴィングは、「あの子の代わりに自分を殺してください」と申し出ます。聖霊を受けると人はこのように変えられていくのです。聖霊を受ける、それはわけのわからない出来事ではなく、私たちの生活を清めていく、大きな力なのです。バプテスマを受ける、その結果として聖霊、神の力をいただく、そのことを通して、私たちの人生は死から生へと移っていく可能性が開けます。すばらしい知らせ、クリスマスやイースターに劣らない良い知らせが、ペンテコステの中にあります。

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