1.目を覚まして待つ
・ルカ12:35以下には、二つのたとえが語られている。第一のたとえは、婚礼の宴に出かけている主人を待つ僕のたとえだ。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(12:35-36)。ユダヤにおいては婚礼の宴は1週間も続くことがあった。だから主人は何時帰ってきてもおかしくない。主人の帰りが真夜中になるのかもしれないし、また明け方になるかも知れない。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12:38)。主人が何時帰っても迎えられるように、着物の裾を腰帯にまきつけていなさいと命じられている。また、主人の帰りは夜かもしれないから、明かりをともしている必要がある。もし主人が突然帰ってきて、僕が準備してまっているのを見たら、主人があなた達に給仕してくれるだろうと言われている。
・このたとえが、キリストの再臨を指している事は明らかだ。キリストは十字架のあと復活され、「すぐ来る」と約束して昇天された(マタイ16:28)。しかし、20年たち、30年たってもキリストは再臨されない。ルカがこの福音書を記した紀元80年(イエスの昇天から50年後)ごろになってもキリストの再臨はなく、教会の中には「何故主は再臨されないのか、何故再臨して私たちを救ってくださらないのか」という声が高まっていた時であった。ルカはイエスの生前の言葉を引用しながら「キリストは思いがけない時に来られる。何時とは私たちは知らないが、必ず来られるから、目を覚まして待っていなさい」と教会に呼びかけている。
・第二のたとえは弟子たちに語られている(12:42以下)。主人が不在の時にも、主人の意を受けて人々に仕える人は幸いだが、主人がいないことを幸いに、下男や女中を殴ったり、主人のものを勝手に飲んだり食べたりするような管理人は災いだと言われている(ルカ 12:45-46)。主人が帰らない、キリストが来ないことによって教会の規律が緩み、緊張感は失われ、信仰は堕落し、油断する。その時、教会がこの世の組織と同じように、強いものが弱いものを支配する場になる。そのような教会は最後の審判において裁かれるだろうと警告されている。
2.私たちにとっての終末
・終末、世の終わりと言う考え方は、日本にはない。日本人にとって歴史は円環である。春が終われば夏が来て、やがて秋になり冬になる。そして再び春が来る。季節が巡るように歴史もめぐる。しかし、聖書は歴史には一つの到達点があり、目標があると主張する。それが終末だ。この終末を死にたとえてみると判りやすい。私たちは今日生きている。明日も生きるだろう。恐らくは明後日も。しかし、終わりの日は必ず来る。明日は今日の繰り返しではない。私たちは死に向かって毎日を歩んでいるのだ。聖書が「目を覚まして待っていなさい」ということは、「私たちは死に向かって歩んでいるのに、今のような生き方を続けて良いのか」と問いかけているのだ。つまり、私たちにとって終末を覚えると言うことは、私たち自身の死を覚えることだ。
・死は私たちの理解を超える出来事だ。死んだらどうなるのか、誰も知らない。知らないから怖い。怖いから。ある人たちは死を見つめようとしない。多くの人は将来の死を忘れて現在を楽しもうとするが、それは何の解決にもならない。ルカ12章16節から始まる「愚かな金持ちのたとえ」がその典型だ。ある金持ちの畑が豊作で、作物をしまう倉が足らないので金持ちは考えた「倉を大きいものに建て替えよう、そうすればこれから先何年も生きていく蓄えが出来る。さあ、食べたり飲んだりして楽しもう」。その金持ちに神が言われる「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)。
・別な人は「この世は悪い、希望がない」として、来世にのみ目を注ぐ信仰に走る。クリスチャンの中にも霊的交わりを強調する人たちも多い。しかし、そこにも満たしはない。それもまた、死を忘れるために神秘に目を向けているだけで、死そのものは克服されていない。聖書は第三の道を私たちに示す「目を覚まして待っている」ことだ。目を覚ましている=死を見つめることだ。死を見つめた時、私たちは大事だと思っていたものの大半が、実は本当に大事なものではなかったことを見出す。お金があっても死の前には役立たないし、生涯をかけた仕事にしても死ねば意味がなくなる。家族さえもそうだ。死を見つめることによって、私たちはこの世の出来事が全て過ぎ去るもの、相対的なものにしか過ぎないことを知り、それらから自由になる。
3.目を覚まして生きる
・今日の招詞に〓ペテロ1:23−25を選んだ。次のような言葉だ。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」
・天地は過ぎゆくが過ぎ行かないものがあるとここで言われている。私たちが癌にかかり、生きていられるのは後半年、長くても1年だと宣告された時、私たちはどうするだろうか。最初は反発し、そんことはないと受け入れないだろう。やがて、それがどうしようもない事実であることを知り、私たちは怒る。何故私が今死ななければならないのか、それは不公平ではないか。次に私たちは死が避けられないことを認識し、どうすればいいのか探求する。しかし解決策はない。やがて死の重さに負け、悲しむ日々が続く。その悲しみと苦しみを経て、やがて死を受容するようになる。そして死を受容した者は、残された生を充実して生きるためには何をなすべきかを模索し始める(キュブラー・ロス「死ぬ瞬間」から)。
・この死の受容の過程は、全ての人がいつかは経験しなければいけない出来事だ。それを「今経験しなさい」と聖書は言う。一度死ぬ、具体的には水のバプテスマを受けることだ。バプテスマ=洗礼は全身を水の中に入れ、そこで古い自分に死ぬ。そして新しい命となって水から引き出される。これが死の受容の最初だ。クリスチャンの出発点だ。そして「死に続けよ」と聖書は言う。死に続ける、「イエスの死を体にまとうことだ」(〓コリント4:10)。具体的には傍観者としてではなく、主体者として生きることだ。例えばホームレスの人々を見て「かわいそう」というだけでは何の意味もない。自分が具体的にホームレスの人々のために炊き出しや洗濯の奉仕をやり始めた時、そのことによって家族から「迷惑だからそんな事はやめろ」と言われて考え込んだ時、私たちは自分に死に始めるのだ。「目を覚まして生きる」とはそういうことだ。しかし、一人で経験するのではない。既に死に勝たれたイエスと共に経験するのだ。「主イエスを復活させた神がイエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると私たちは知っている」(〓コリント4:14)から、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(同4:8−9)のだ。イエスは死んで復活された、そして今生きておられる。この信仰だけが、私たちに、自分がやがて死ぬ存在であることを知り、だからこそ現在を大切に生きようとする心を与えてくれるものだ。