江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年5月25日主日礼拝説教(マタイ5:13-16、あなたがたは地の塩、世の光である)

投稿日:2008年5月25日 更新日:

1.あなたがたは地の塩である

・毎月第四主日は、水口がマタイ福音書から「山上の説教」の講解をしております。先月、私たちは「心の貧しい人々は幸いである」の箇所から御言葉をお聞きしました。貧しさや病気を通して、心が貧しくされることによって、私たちは自己から解放されて神と出会うことが出来る、だから「心が貧しい人は幸い」であることを学びました。今月は2回目として、「地の塩、世の光」を考えて見ます。
・古代において塩は貴重品でした。古代ローマにおいては、兵士への給料として塩(ラテン語 sal)が支給されました。そこから給料をsalary(塩)と呼ぶようになりました。また、食品に関する言葉には「塩」に由来するものが多くあります。「サラダ(salad)」、「ソース(sauce)」、「ソーセージ(sausage)」、などは塩が語源になっています。今日の日本では、塩は成人病の原因になるとして、「塩分控えめ」とか、「減塩食品」が健康食品であるかのように言われています。しかし、塩は人の健康を維持する上で、不可欠の物です。1日10グラムは必要と言われています。炎天下で大量の水を飲んでも塩を摂り忘れると、日射病にかかります。お汁粉に微量の塩を加えると、格段に甘味を増します。隠し味としての効能です。塩は食物の味付けをする、また食物が腐らないように保存する上で、古代から貴重な物でした。
・イエスは弟子たちに言われました「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(5:13)。弟子であるあなた方は世の塩、世を腐敗から守る礎になるのだ、だから塩気をなくすな、弟子であり続けよとの意味でしょう。解釈するのに特に難しくはない箇所です。しかし、イエスが言われた真意がもし別の意味であるとしたら、この箇所は違うメッセージを持ってきます。
・イエスの言行を記す福音書は4つありますが、そのうち、マルコ・マタイ・ルカは共観福音書と呼ばれています。内容が似ているからです。聖書学では、マルコが最初に書かれ、それを基礎にマタイ・ルカが他の資料を加えて書いたとされています。つまり、三福音書に同じ記事がある場合、一般的にマルコが原型に近く、マタイ、ルカはそれを編集していると見ます。塩の例えは三福音書全てに出てきますが、マルコの記事とマタイの記事は微妙に異なります。今日は三福音書の違いを通して、イエスが真実、何を言われたのかを見てみます。
・マルコ福音書では、塩を最後の審判、裁きと意味づけて記しています。マルコ9章後半ですが、「片手が罪を犯せば切り捨てよ、両手のままで地獄に行くより良いではないか」とのイエスの言葉の後に、「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」(マルコ9:49-50)と語られます。旧約聖書では塩は契約の捧げものを清める存在として出てきます(レビ2:13「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」)。捧げ物を腐敗から守るために塩が使われます。ここでは「塩気をなくすな」とは契約を破るな、破れば地獄に行くと言う意味を持っています。元々のイエスの言葉は激しいものでした。
・ルカは塩のたとえを別の文脈に置いています。イエスに従おうとする弟子は、自分の持ち物を捨て、十字架を背負って従う覚悟が必要だとの言葉の後に、塩の例えが置かれています。「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ」(ルカ14・34~35)。この文脈からすると、塩気を失った塩というのは、一切を捨ててイエスに従う覚悟のない弟子を指します。イエスを主と告白しながら、自分の都合のよい時しかイエスに従わない人は、自分の幸福を求めているだけで、本当にイエスに従う者ではない。そのような弟子は「塩気を失った塩」で、神の良き業のための役に立たず、投げ捨てられるだけだ。イエスに従おうとする者は、イエスと共に十字架の道を歩む覚悟をしなさい、そのことをルカは塩のたとえで表明しています。「塩気を保つとは全てを捨てることだ」という厳しさがあります。
・このマルコとルカの釈義を見たうえで、マタイを見ると、最初の単純な解釈とは違う意味が見えてきます。マタイは「あなたがたは地の塩である」と言います。「塩になれ」ではなく、「既に塩なのだ」と言います。マタイはイエスが告知された「神の国の福音」をまとめるにあたって、最初に八つの「祝福」を置きました。そこでは、神の国を受け継ぐ幸いな者は「貧しい者」であり、この世界では苦しみを受ける人々であることが語られました。その苦しみを受ける「貧しい者」たちにマタイは呼びかけます。「イエスの弟子としてこの世界で苦しみを受けているあなたがたこそ、世の腐敗を止め、神に献げられるにふさわしくする塩の役割を果たす者である」。マルコのような「契約を破るな、破れば地獄に行く」という激しさが緩和され、ルカのように「全てを捨てて従え」という厳しさも和らげられています。マタイの編集のおかげで、塩の例えはより親しみのある、私たちも聞くことの出来る御言葉にされています。マタイの場合、「塩気」とは、「山上の説教」で説かれる教えを行うことを指しているのでしょう。聞くだけで行わない者は、塩気をなくした塩のように、捨てられるだけだと警告するのです。このマタイの優しさが、私たちに言葉を聞くことを可能にしています。

2.あなたがたは世の光である。

・マタイは続いて、「あなたがたは世の光である」という呼びかけを置きます。ここには「ともし火」の例えと、「山の上の町」の例えとの双方の枠組みの中で、「世の光」が語られています。「ともし火の例え」は三福音書全てに出てきます。マルコ福音書は救い主の到来を示す文脈の中でこの例えを伝えています。岩波訳で読めば次のようになります「ともし火は、升の下や寝台の下に置かれるためにやって来るだろうか。燭台の上に置かれるためではないか」(マルコ4:21)。ギリシャ語原文はともし火が主語です。「ともし火が来る」、光が来るとの意味です。火はキリストを指しています。ヨハネ福音書はもっと明白な言葉で表現します。「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1:9)。もともとキリストを指していた「ともし火の例え」が、マタイとルカでは、「ともし火をともす」という表現を通して、光が弟子の意味に変えられています。マタイは、この例えをもっぱら弟子に関わるものとし、弟子たちが立派な行いによって神の光を人々の前に輝かすように求めるものとして、これから与えられるイエスの教えを実行するように促す、序文の位置に置くのです。
・イエスは光として世に来られ、その光を隠すことなく、身を挺して光を世に輝かされましたが、今は弟子が「世の光」として、イエスがなされた業を継承していくのです。マタイはイエスの言葉を通して、教会の人々に従うことを求めているのです。ともし火を枡や寝台の下に置かず燭台の上に置くように、弟子たちは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と求められるのです。
・1946年、第二次大戦が日本の無条件降伏で終わった翌年、19歳の私は中国から引き揚げてきました。外地で帰国を待つ私たちに伝えられる、日本のニュースは暗いものばかりでした。空襲で焼け出された人々は防空壕で暮らしているとか、戦地から帰国した元軍人たちが軍服姿で強盗をしているとか、一日働いた賃金で買えたものが握り飯一つだとか、治安の悪化、生活の苦しさを伝える知らせばかりでした。その中で、帰国した私が驚いたことは、大戦中迫害を受けていたキリスト教徒が街に現れ、路傍伝道をしている姿でした。枡の下に隠されていたともし火が、燭台の上に置かれて輝き始めていたのです。私はまもなく教会に導かれ、バプテスマを受けました。

3.私たちへのメッセージ

・マタイは5章17節以下、この「山上の説教」全体に、イエスが教えられた「キリスト者の生き方」とはどのようなものであるのかをまとめています。「殺すな、姦淫するな、離縁するな、偽証するな」という神の戒めがさらに深められ、内面化されているだけでなく、「敵を愛せ」という人間が考えもしなかった高みにまで達し、さらに生活の必要の一切を神に委ねよとまで言います。このような生き方を私たちはなぜするのか、それをマタイは「人々があなたがたの天の父をあがめるようになるためだ」といいます。「あなたがたはすでに神の子とされている、だからそれにふさわしく生きよ」とマタイは自分の教会の人々に呼びかけているのです。弟子が世に輝かす「光」とは「父の栄光」です。教会の現実が、イエスが語られた説教と似ても似つかない、罪の中にあったのでしょう。あなたがたは父の栄光を表すような生き方をしているのか、とマタイは教会の人々に問いかけているのです。マタイ福音書はある意味で、マタイの信仰告白、説教なのです。イエスの言葉と行いをマタイが受けて、それを教会の人々のために解き明かした書なのです。
・今日の招詞として、ヨハネ12:24−25を選びました。次のような言葉です「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。麦は、自らが死ぬことによって、地の中で壊され形を無くして行きます。そのことによって、種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。自分の姿を残す、蒔かれずに貯蔵しておけば今は死なないでしょうが、やがて死に、後には何も残しません。イエスが十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていきました。私たちもその命をいただいた一人です。だから私たちも、自分の形をなくして、イエスのために世に仕えていきます。塩も食物の味付けをし、腐敗防止の効能を果たした後は、溶けて形をとどめません。光は家の中を照らすことによってその使命を果たしますが、主役は光ではありません。
・このような生き方が自分に出来るだろうかと私たちは感じます。教会は、長い歴史の中で過ちを犯し、イエスが求めておられる生き方は出来ませんでした。しかし、その中にも、イエスの「山上の説教」を真剣に受け止め、あらゆる苦難の中でそれを生き抜くことによって、愛の神がいますことを世界に伝えるような人物が、少数ながら現れました。アッシジの聖フランシスはそのような生き方をしましたし、マザーテレサもイエスの弟子として、「山上の説教」を生きた人です。
・マルコのように「契約を守らなければあなたも滅ぶ」と激しく迫られたら、私たちは後ずさりします。ルカのように「一切を捨てて従わなければ塩でなくなる」と言われれば、私たちは下を向きます。マタイはそれを知っているからこそ「あなたは既に世に塩であり、世の光だ。破れがあっても良いのだ」と慰めます。マタイがこのような形で「神の国の福音」をまとめ、それを教会が伝えたことで、私たちは今この福音を聞くことが出来るのです。私たちも一人一人が置かれている場で、この「神の国の福音」を生きるならば、この土の器、もろく壊れやすい器の中にも、神の恵みの光を宿し、「地の塩」、「世の光」となるのです。

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