江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年6月1日主日礼拝説教(ヨハネ第一の手紙 1:1-10、光の中を歩きなさい)

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1.教会分裂に苦しむ信徒の人々に

・昨年のクリスマス以降半年に渡って、私たちはヨハネ福音書から御言葉を聞いてきました。ヨハネ福音書は、ユダヤ教からの迫害に苦しむ教会の信徒のために書かれた福音書です。著者である使徒ヨハネは、福音書の中でイエスの言葉を用いて、人々を励ましました「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。「私は既に世に勝っている」と宣言された方が私たちと共におられる、だからくじけるな、負けるなと使徒ヨハネは書き記しました。
・それから十数年の時が流れました。使徒ヨハネの教会は試練の中を生き残り、今ではエペソを中心にした複数の群れにまで、育っていました。しかし、その教会の中に新たな危機が生まれました。伝えられた福音とは異なる教えを信じる者たちが出て、教会に混乱が生じ始めたのです。このような状況下で書かれた三通の手紙がヨハネの手紙です。今、私たちはこの手紙を読むことが必要だと感じています。かつて私たちの教会は深刻な分裂を経験したし、このたびの舞浜伝道所の閉鎖も教会分裂の一つと思えるからです。今週から数回にわたって、このヨハネの手紙を共に読んでいきます。
・福音はエルサレムを出て、ギリシャ・ローマ世界に広がっていきましたが、それと同時に、神の子の受肉に疑問を持つ人々が教会内に生まれてきました。ギリシア哲学は、「人間の本質は霊であり、肉体は霊の宿る牢獄に過ぎない」と教えます。霊肉二元論です。彼らには、「神が肉体を持って人となられた」と信じることは愚かなことのように思えました。人々は、「キリストは真の肉体を持たず,その誕生は仮の姿にすぎない」としてイエスの受肉を否定しました。また「神の子が血を流して死ぬ、そのようなことがあるものか」とイエスの受難を否定するようになりました。更に、彼らは、イエスが体を持ってよみがえられた復活をも否定するようになります。これは教会が使徒から教えられた教えを完全に否定するものでした。人間の目から見れば、「神が人となられた、その神が人のために死なれた」という教えは、信じることが難しい出来事です。しかし、信仰とは理性を超える出来事を受入れていくことです。
・異なる福音を信じる人々は教会を分裂させて出て行ったようです。手紙2:19は記します「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました」。残された信徒たちは混乱の中にありました。その人々に向けてこの手紙が書かれています。著者は自らを長老と名乗ります(�ヨハネ1:1他)。おそらく使徒ヨハネの弟子であり、使徒から教えを受け、その教会を委託されたのでしょう。

2.闇の中を歩むな

・長老ヨハネは書きます「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、また手で触れたもの、すなわち、命の言について、伝えます」(1:1)。天地創造の前から存在されておられる神が、人となって、私たちの間に住まわれたのだと長老ヨハネは主張します。それは使徒ヨハネが福音書に書いた言葉、「言葉が肉となって、私たちの間に宿られた」を反映しています(ヨハネ1:14)。神の子が人となられた、私たち(使徒ヨハネと長老の私)は、イエスが話されているのを聞き、イエスの姿を見、イエスの体に触れたのだと証言しています。このイエスこそ、救い主=キリストなのだと。
・長老ヨハネは続けます「この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1:2)。私たちはイエスが十字架に死なれ、三日目に復活されたのをこの目で見た、イエスは神と人を和解させるために死なれた、この死によって、あなた方も神との交わりの中に入ることを許されたのだとヨハネは言います。「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなた方も私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1:3)。キリストが来られ、血を流して私たちの罪を購って下さった。そのことによって、私たちは神と和解し、神との交わりを回復した。神との交わりを回復した者は人と交わることが出来る。なぜならば、お互いに神の子とされた者たちは、兄弟姉妹の関係に入るからです。
・ヨハネは続けます「私たちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1:5)。「神は光である」、私たちはこの神の光に照らされて、心の中の闇、罪が照らされます。私たちは心の中に闇を、人に見せることの出来ない醜い自己を持っています。その私たちの闇が神の光に照らされて明らかにされます。その罪を私たちが認め告白する時、罪が清められます。ヨハネは言います「私たちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(1:6-7)。
・長老ヨハネは、交わりから去っていった人たちのことを考えながら手紙を書いています。「神は光である」と言いながら、教会の交わりを壊して去っていった人たちのことです。人間は弱い存在ですから、罪を犯します。罪とは神の御心に反する行為であり、それは神との交わりを妨げると同時に、人との交わりも妨げます。何故なら、罪は自己主張をし、お互いの自己主張の衝突が争いを生むからです。長老は、共同体の交わりが人間の罪によって妨げられ、破壊されている現実を見つめています。ですからそれを克服する道を説きます。神は、罪を犯さざるをえない弱い人間が、光の中で交わりを維持することができるように、罪を克服する道を備えてくださった。それが「御子イエスの血」、受難による贖いです。
・神は「御子の血による清め」を備えてくださった。私たちはどうするのか。もし私たちが、「自分の罪を公に言い表すなら」(1:9a)、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清める」(1:9b)
と宣言されます。しかし、「罪を犯したことがないと言うなら」(1:10a)、「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません」(1:10b)。教会を分裂させた人々は、自分たちには罪がないと主張したようです。罪がなければ、キリストが死ぬ必要はなかった。そのような態度は、福音に示された神の言葉を拒否することです。長老は共同体の各員に勧めます「自分が罪を行う弱い存在であることを認めて、子の血による清めを受け、互いの交わりを維持するように」と。自分には罪はないとして、相手を裁く心が交わりを破壊するのです。

3.光の中を歩みなさい

今日の招詞にマタイ5:14−16を選びました。次のような言葉です。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
・山上の説教の1節であり、先週水口仁平牧師を通して、聞いた言葉です。イエスは私たちに言われました「福音を聞いたあなたがたは、既に神の光をいただき、その明かりを持つ者となった。そのあなたがたが、明かりをますの下に隠したら何の役にも立たないではないか」。ともし火をますの下におけば、風で火は消えてしまう。せっかく明かりをいただいたのに、それを隠すことをするな。あなたがたは既に光なのだ。その光を世に示し、世を照らすのがあなたがたの役割なのだとイエスは言われました。
・「あなたがたは世の光ではないか」、マタイを通して聞く神の言葉を、ヨハネは「光の中を歩みなさい」という別の言葉で言い直しています。光は自分のために輝くのではなく、相手を照らすために輝きます。世の光であるとは、立派なクリスチャンになって、その行為で周りを感化することではありません。社会を改革するために熱心に行為することでもありません。私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがあります。泣いたことのある者は他者の悲しみを悲しむことが出来、苦しんだことのある者は他者の苦しみを理解できます。その意味で、私たちは悲しむ人、苦しむ人に共感することが出来る、その共感を通して他者を照らす光とされているのです。ヨハネは言います「兄弟を愛する人はいつも光の中にいます」(2:10)。私たちはキリストの十字架を通して、人と交わることの出来る、光の中を歩む存在にさせられている。ですから、その光からそれるな、キリストから離れるな、長老ヨハネはマタイと声を合わせて、私たちにメッセージを送っているのです。
・現実の教会の中には罪があります。「キリストにあってはユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)とパウロは述べましたが、現実には意見の違う人も考えかたの異なる人もいます。全ての人を好きになることは出来ません。しかし、私たちには嫌いな人も愛する能力が与えられています。愛は感情ではなく意思です。そして、その人のためにもキリストが死なれたことを私たちは知っています。ですから、私たちはその人を憎みません。しかし、私たちが和解の手を差し伸べても拒絶される時があります。その時どうするか、聖書(ルカ9:5他)は、異端とはかかわるなと教えます。その先は神の業であり、私たちには関与できません。しかし、少なくとも、こちらから拒絶することはしない。自分の信仰が異端か、聖書に基づいているかの判別は簡単です。自分と異なる人を受入れるか、憎むか、です。ヨハネは言います「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(2:9)。「あなたがたはすでに光にされている。だから光の中を歩みなさい」、この言葉を今日は心に刻みたいと思います。

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