江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年5月18日礼拝説教(テモテ第一の手紙 6:11-21、弟子への戒め~異端にどう取組むか)

投稿日:2008年5月18日 更新日:

1.エペソ教会で起きていた異端の問題

・私たちは先週、ペンテコステ礼拝を守りました。五旬祭の日に、弟子たちに聖霊が与えられ、臆病だった弟子たちが御言葉を語り始めました。その言葉は人々の心を動かし、多くの人がその日にバプテスマを受けます。誕生したばかりの教会は、全ての持ち物を共有する生活共同体として、成長していきました。しかし、教会に集う人が多くなるに従い、全てを分かち合う生活共同体は維持できなくなり、次第に組織化され、監督や執事という役職が生まれていきます。また使徒たちがいなくなり、二代目・三代目の信徒たちが中心になってくると、最初の教えから離れる人たちも出て来ました。いわゆる、異端が生まれてきたのです。
・パウロは異邦人伝道の使徒としてコリントやエペソに次々に教会を建てていき、それらの教会には信頼する弟子たちを牧会者として置きました。コリントにはアポロを、エペソにはテモテを、クレタにはテトスを、というようにです。このテモテ書はエペソの若い牧会者テモテに送ったパウロの書簡です。中心になっている事柄は、異端にどう取り組むか、です。教会が成長するに従い、使徒の教えとは異なる様々の教えが出てきて、それが教会を混乱させるようになっていたのです。初代教会の異端はユダヤ教から改宗した人たちが持ち込んだ律法主義(戒めを守らないと救われない)と、新しく教会に入ってきたギリシャ系の人々が持ち込んだグノーシス(人の本質は霊であり肉は汚れている)と呼ばれるものが中心でした。今日はテモテ書にあります異端問題を通して浮き彫りになる、正しい信仰とは何か、私たちは何を基準に信仰生活を送るべきかを考えて見ます。
・最初にテモテ書の中で、異端=異なる教えがどのように記述されているのかを見てみます。最初に出てくるのが1章3節以下です「あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと・・・私のこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました」(1:3-6)。ユダヤ教の流れを汲む律法主義者が教会の中で、安息日や食物の戒めを守らない人々を攻撃していたのでしょう。次に出てくるのは4章1節以下です。「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします」(4:1-3)。禁欲を説くグノーシスと呼ばれる人々です。彼らにとって肉体は穢れであり、禁欲によって清めなければいけないと考えていました。最後に出てくるのが6章3節以下です「異なる教えを説き、私たちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」(6:3-5)。異なる教えを説く人たちは、信仰を金儲けの手段と考える傾向があったようです。

2.異端とどのように戦うのか

・これらの記事から要約されます異端の特徴の一つは、関心が「自分の救い」にある点です。彼らは言います「救われるためには結婚してはいけない。救われるためには、ある食物は食べるなと」(4:3)。異端の多くは禁欲主義として出てきます。欲望を絶つ=修行や禁欲によって、救われるとする運動はどの時代にも起こっています。救いは神の恵みですが、その恵みは見えません。見えない救いを見えるようにしたい、自分の力で確保したいという動きが異なる教えになっていきます。しかしパウロはガラテヤ教会への手紙の中で言います「私は、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2:21)。救われるために禁欲が必要であれば、イエスは何故十字架で死なれたのか。教えを守れば救われるとするならば、あなたはイエスの十字架を否定するのだとパウロは言うのです。
・本当の禁欲は自分が救われるためではなく、愛から生まれます。パウロはローマ教会への手紙の中で、神殿に捧げられた肉を食べても良いかとの議論を展開しますが、その中で言います「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ14:15)。キリストの愛のために食物を断念する、これこそが私たちの為すべき禁欲なのです。自分の救いは神に委ねるゆえに、キリスト者の関心は他者の救いに向かうのです。
・異端の第二は金銭の取り扱いについて生じます。パウロはテモテに教えます「異なる教えを説き、私たちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者・・・は、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」(6:3-5)。キリストの戒め=愛とは「相手の足を洗う」行為であり、そこからは他者を貪る行為は出てきません。他者を貪らないとは、利得=自分の利益を求めない、必要以上の金銭を求めないことです。パウロは言います「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」(6:6-8)。
・どのような境遇にあっても満ち足りる、生き方が外的状況に左右されない。信仰者が与えられる平安です。パウロは金銭そのものを否定しませんが、金銭欲から多くの罪が生まれることを指摘します。「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」(6:9-10)。イエスが教えられたように「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)からです。
・ここで異端とは何かを整理してみます。最初に述べましたように、初代教会の異端としては、ユダヤ主義とグノーシス主義が主なものでした。2世紀になりますとマルキオンが出て、旧約の神と新約の神の違いを説き、旧約聖書を否定し、ルカ福音書とパウロ書簡のみを正典としました。この動きに対抗するために、教会は旧約聖書と新約聖書27巻を正典として編集しました。同じ2世紀の後半のモンタノスは、聖霊の働きを強調し、再臨と終末が近いことを熱心に説き、厳しい禁欲を勧めていきます。このような異端の拡がりの中で、教会は使徒の教えを使徒信条の形でまとめ、今日でもこの信条が教会の信仰の基本になっています。

3.異端は私たちの問題だ

・今日の招詞に箴言30:7−9を選びました。次のような言葉です「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。
・箴言の言葉の中には、知恵があります。食べ物がなければ盗みをしかねない自分の存在を知り、持ち物がありすぎれば傲慢になる自分をも知っています。その中で正しい道を祈り求めます。この箴言の精神こそ、パウロが私たちに勧める生き方です。私たちは裸で生まれ、裸で死んでいきます。この世で本当に必要なものは、食べるものと着るものだけかもしれません。そして神は必要なものを与えてくださる。だからパウロは言います「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと」(6:17-19)。
・パウロは最後にテモテに勧めます「あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい」(6:20)。「知識と呼ばれている反対論」がグノーシス=ギリシャ語「知識」です。自分は神の奥義を知っている、そのおごりが人々を間違った方向に導いていったのです。「俗悪な無駄話と・・・反対論とを避けなさい」、パウロは異端の人々との不毛な議論は避けよと言っています。教会は議論をする場ではなく、神の言葉を聞いてそれを行う場だからです。
・異端は教会の病める部分から始まります。異端は外部から来るのではなく、教会の内部から生まれるのです。このことは私たちに、本当の異端とは何かを教えます。ユダヤ主義やグノーシス主義が恐るべき異端なのではない。今日で言えば、統一教会、ものみの塔(エホバの証人)、あるいはモルモン教が恐るべき異端なのではなく、本当の異端は私たちの心の中にあります。救いを自分の手に持ちたい、戒めを守らない人を不快に思う、礼拝や献金を守ることで救われる、そういう思いが異端=聖書からの逸脱として現れます。異端は、私たちの問題なのです。聖書の勧めは「相手が何をしてくれるか」ではなく、「自分は何が出来るか」を求めていくことです。人を愛するとは自分が損をしていくことです。自分が得をしていくなら、それは、愛ではなく、貪りです。私たちには知恵が、信仰に裏打ちされた知恵が求められます。次に紹介しますラインホルド・ニーバーのような祈りが必要です。彼は祈ります「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

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