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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2022年1月23日聖書教育の学び(2009年7月19日説教、マルコ6:30-34、憐れみに動かされて)

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1.飼い主のいない羊のような

 

・聖霊降臨節の今、マルコ福音書を共に読んでおります。先週私たちは、イエスが十二弟子を訓練のために各地に派遣された記事を読みました。今日はその続きの箇所です。弟子たちがイエスの下に戻ってきて、派遣先でどのようなことを行ったのか、どのようなことを話したのかを、興奮して次から次へ報告します。初めての派遣を無事に終えて、彼らは興奮していました。イエスは弟子たちが疲れているのを見て、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われ、弟子たちと共に舟に乗って向こう岸に行かれます。ところが人々はイエスたちが舟に乗ったのを見て、先回りして駆け出し、イエスたちを待ちました。今日の物語はそこから始まります。

・人々は驚くべき熱心さでイエスを求めています。もちろん、自分や家族の病気の癒しを求めてでした。その彼らを、イエスは「憐れまれ」ます。マルコは記します「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)。人々はイエスたちが休息を必要としているにもかかわらず、イエスの下に殺到してきました。せっかくの休息が休息にならない。しかしイエスは彼らを拒絶されず、逆に彼らの「飼い主のいない羊のような有様」を「深く憐れ」まれました。今日の与えられました聖書箇所は短いところですが、大事なメッセージが含まれています。

・「飼い主のいない羊のような」、それが大事な言葉の一つです。羊は臆病で弱い動物です。彼らは自分で草地を見つけることも、水のみ場を探して飲むことも出来ません。また彼らは自分で野獣から身を守ることも出来ません。羊の群れは羊飼いなしには生きていけないのです。飼い主=羊飼いの役割は、羊の群れを一つにまとめ、野獣の襲撃から守り、草地に導くことです。これは人間も同じです。ですから神は人々に飼い主=支配者を与えて保護されます。しかし世の支配者=羊飼いの関心は羊ではなく、自分にあります。かつて旧約の預言者エゼキエルが批判したのも、民を養わず、自分たちを養う指導者たちです。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが・・・弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった・・・彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」(エゼキエル書34:2-4)。

・イエス時代の民衆も信頼できる飼い主=羊飼いがいませんでした。当時のガリラヤ領主はヘロデ・アンティパスでしたが、彼は自分の不道徳な行為を洗礼者ヨハネが批判すると、ヨハネを捕らえ、その首をはねます。このような指導者を人々は信頼できるでしょうか。民のために執り成しをする役割を与えられた祭司は、神殿税や賽銭によって裕福な生活をしており、民が困窮しても気にかけることはありませんでした。このような指導者を人々は信頼できるでしょうか。日常の生活指導を行う役割は律法学者が担っていましたが、彼らは民が律法違反をしないかどうか目を光らし、律法を守ることの出来ない人々を「地の民」と呼んで軽蔑していました。このような指導者を人々は信頼できるでしょうか。何時の時代でも世の指導者は、民の利益よりも自分の利益を優先します。その結果、民は「飼い主のいない羊」のような状況に放置されます。

・しかし神はこのような状態を放置されません。神はエゼキエルに宣言されます「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」(エゼキエル34:23)。民を良く養ったダビデを継承する牧者を立て、民を救済すると神は言われました。イエスは今、その神から派遣された牧者として人々の前に立たれています。

 

2.深く憐れんで(スプラングニゾマイ

 

・牧者イエスは民衆を見て、「深く憐れ」まれます。二番目の大事な言葉が、この「深く憐れまれた」という言葉です。ギリシャ語では「スプラングニゾマイ」と言います。「スプランクノン(内臓)が痛むほど動かされた」という意味です。英文聖書はこの言葉を「compassion 」と訳します。同情、共感という意味ですが、原語のラテン語「コンパティオール」は共に苦しむという意味を持ちます。憐れみとは同情や共感のレベルを超えて、「共苦(共に同じ苦しみを苦しむ)」という深い意味を持ちます。

・共観福音書には115の癒しの記事があるそうです。イエスの活動の中心が癒しだったことは事実です。イエスは何故癒しの業を為されたのでしょうか。イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々でした。ハンセン氏病を患う人に対し、イエスは「深く憐れみ(スプラングニゾマイ)」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒されます(マルコ1:40-45)。当時ハンセン氏病を患う人に触れることは禁止されていましたが、イエスはあえて彼に「触れて」、癒されます。また一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い(スプラングニゾマイ)」、当時の禁止規定に逆らって「棺に手を触れ」、彼を生き返らせます(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われました(マルコ3:1-6)。

・このことが示しますことは、イエスは自らが痛む(社会的制裁を受ける)ことにより、病む者たちの痛みを共有されということです。マタイはそれを次のように表現します「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:16-17)。悲しみや苦しみの絶えないこの社会の中で、痛みの共有としての癒しイエスは行われていたのです。

 

3.あなた方の手でパンをやりなさいと言われるイエス

 

・今日の招詞にマルコ6:37を選びました。今日の聖書箇所に続く言葉です「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。弟子たちは、『私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った」。

・憐れみの心は行為をもたらします。イエスは人々に神の国の福音を伝えられました「神の国が来た。神はあなたがたを憐れんでくださる。あなた方は今飢えているが神はあなた方を満たしてくださる」と。いつの間にか時間が経ち、夕暮れになりました。弟子たちが心配してイエスのところに来ます「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」(6:35-36)。それに対してイエスが言われたのが招詞の言葉「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」です。弟子たちは反論します「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。ここには5千人の人がいます。こんなに多くの人々に食べさせるだけのお金はないし、仮にお金があったとしても、この寂しい場所で、たくさんのパンを買える訳がありません。弟子たちは正しい、人間業ではそれは不可能なことです。

・しかしイエスは動揺されません。イエスは弟子たちにパンはいくつあるのか調べるように言われます。五つのパンと二匹の魚がありました。イエスは「人々を座らせなさい」と言われました。旧約の時代、神は一握りの小麦粉で三年間、エリヤとやもめ一家を養われました(列王記上17:16)。神は必要な時に必要なものを与えてくださるとの信仰がイエスにありました。イエスは、天を仰いで感謝の祈りを唱えてから、人々にパンを分け与えられ始めました。また、干した魚も同じようにして分け与えられました。5千人の人が食べて満腹し、パンくずが十二の籠に一杯になったとマルコは記します。人間のつぶやきを超えて、神が行為されました。どのようにして、それが可能であったのか、マルコは何も言いません。ただ、人々を空腹のまま帰らせるのはかわいそうだという神の憐れみと、父は必要なものは与えてくださるとのイエスの信仰が、この奇跡を可能にしたのです。

・朝日新聞で「公貧社会」という連載を行っています。現代の貧困を考える企画で、7月16日朝刊に次のような事例が掲載されていました「大分キャノンの仕事を失った33歳の男性は“部屋で倒れたら助からない”と、飢えた体で寮の近所を徘徊していた」、「生活保護を受けながらNPOの施設で集団生活をする66歳の男性は“死ぬまでただ生きているだけ”とつぶやいた」。「飼い主のいない羊のような」、現代社会の有様がここに展開されています。イエスは飼い主のいない羊のような人々のために、パンを増やされました。では、私たちは何をすればよいのでしょうか。

・私は毎月第三木曜日に、連盟の主催する「実践神学研究会」に出席しています。指導してくださるのは関田寛雄先生ですが、先生は以前青山学院大学で説教学を教えながら、川崎の桜本教会を開拓伝道されていました。今は藤原繁子先生が牧会をされていますが、先日の会合でこのようなことを話されました。「桜本教会では、毎日曜日の礼拝の後と、木曜日のお昼に、100人からのホームレスに食事を提供しています。陪餐会員が40名そこそこの教会ですからそれだけのまかないをするのは火の車ですが、教会員こぞって一所懸命、給食サービスをしております。藤原牧師の言うところは“雑炊やおにぎりをあちこちに配ることも大事な仕事だが、教会ができることを私はしたい”ということで『人が生きるのはパンのみにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』(マタイ4:4)というイエスの言葉を実践すべく、礼拝からこれらの人たちを招いているのです。心無い人はそれを、洗礼者を増やすために食事で礼拝に人を集めている、というような批判をしておりますけれども、実態をみるととてもそういうことではない。日曜日の朝、桜本の教会に出ると、礼拝堂の空気の臭いからして違う。藤原牧師はバルトの影響を受けた方ですのでその説教はなかなか難しいのですが、それでも、感謝祭の時などに、“今日は教会の暦では感謝祭です。何が感謝かと思う人もいるでしょうが、ここで仲間に会える、今日という日にその仲間と食事が出来る。その小さなことをありがたいと思う心は人間として最高のことなんです”そういう説教をされる。すると満席の会堂で、何人かのホームレスの方が目をぬぐっているのが見え、藤原先生の言葉は届いているなぁ、と感じます。そういう中で受洗者が2人3人と毎年増えてくるのです。彼らははっきり申します。“おれは飯を食いに来たんだよ。 キリスト教のことなんかどうでもよかった”と。“でもそのうちだんだん藤原先生のお話に心を開かれて、やっぱり教会に入りたいと思った”という感想を話しているのです」と。

・イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。桜本教会の人々はこの言葉を実行しています。陪餐会員(私たちでいう正会員)40名ですから、裕福な教会ではありません。しかし、教会の人々は「貧しさと飢え」を共有することで、イエスの行われた憐れみの行為を再現しています。イエスは多くの癒しを行われました。私たちにはイエスのような奇跡を起こす力はありません。そもそもイエスは私たちに出来ないことを求められているのではありません。出来ることから始めよと言われます。私たちには5千人の人を養う力はありませんが、手元にあるパンと魚を差し出すことは出来ます。後は神が為してくださる、それを信じて行うことが思いがけない大きな出来事、奇跡を生んでいきます。信仰の行為を通して、私たちは「神の国が今ここにある」ことを見ていく、そして見せていく、それが教会の使命なのです。

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