- 飼い主のない羊を憐れまれるイエス
・マタイ福音書は9章の終わりで、これまでのイエスの活動をまとめている。
-マタイ9:35-38「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」
・飼い主のない羊のような哀れな群衆を救う為政者も、宗教的指導者もいないのを見て、イエスは彼らを憐れんだ。当時のユダヤではファリサイ的ユダヤ教指導者が、民に律法の重荷を背負わせ、よけいに民衆を苦しめていた。ファリサイ派はこの群衆を、「焼き捨てられるもみ殻のように無価値」と見ていたが、イエスは「刈り入れて蓄えねばならぬ収穫」と見た。ファリサイ派は哀れな群衆を放置したが、イエスは彼らを救おうとした。働き人がいなければ収穫はできないから、イエスは「収穫は多いが働き手は少ない」と言われた。救わねばならぬユダヤの民衆を目の前にして、福音を伝え導く者が少ないことをイエスは憂え、伝道者が与えられるよう祈りなさいと弟子たちに命じた。
-マタイ9:37-38「そこで弟子たちに言われた。『収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」
2.十二使徒の選び
・9章のイエスは「働き人を送ってください」と祈るよう弟子たちに命じる(9:37-38)。10章ではその働き人として、イエスは十二人を使徒に選び、世に送り出す。それまでの弟子たちは、イエスに付き従い、イエスの教えを聞き、イエスの業を目前にしていたものの、傍観者に近い者たちだった。その彼らをイエスは宣教の協力者、働き人と変えられた。
-マタイ10:1「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。
・弟子たちの中から十二人が選び出され、汚れた霊を従わせ、病を癒す権威と力が与えられ、「収穫のための働き手」として立てられた。イエスによって選ばれ、使徒となった人々は、特別に立派な人や、優れた人たちではなかった。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはガリラヤ湖の漁師だ。人々から罪人の代表として忌み嫌われていた徴税人マタイの名もここにある。さらには、後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダの名もあげられている。彼らは働き手としての優れた資質を見込まれて使徒となったのでなく、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」人々の一人だったのに、イエスが、探し出し、牧者となって下さった。今度は彼ら使徒たちがイエスの業を継承する時が来た。
-マタイ10:2-4「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」。
3.十二人の派遣
・イエスは弟子たちに異邦人の地に行くなと命じている。異邦人の地とは北のシリア、東のデカポリス、南のサマリアである。行くなと命じたのは、イスラエル同朋の救いを優先した(「イスラエルの家の失われた羊のところに行け))。使徒たちの第一回伝道旅行はガリラヤ地方に限定されている。
-マタイ10:5-7「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」。
・イエスは弟子たちに、死者を生き返らせることと、らい病の癒しを命じている。そこにあげられていることは全てイエスご自身がしておられたことだ。十二人に与えられた使命は、イエスご自身のみ業の延長であり、彼らは、イエスの憐れみの心を世の人々に伝え、広め、具体化するための「働き手」として遣わされた。
-マタイ10:8「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。
・彼らの宣教の旅は、金も持たず、着替えも持たず、すべてを神に委ねた旅だった。神のための働き手には必ず必要なものが備えられ、与えられる。行った先々の人々が、必要なものを捧げてくれる、それを信じて、神の御手に身を委ね、与えられた使命を果していく、それが派遣されていく弟子たちの姿である。
-マタイ10:9-10「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」。
・イエスは弟子達に対し、宣教の拠点にふさわしい家を探し、その家に留まるよう命じている。宣教の妨げになる家には留まるなということである。その家に入ったら、まず「シャローム」(平和があるように)と挨拶を交わすよう命じている。その挨拶が返されないような家は、彼らが留まるのに、ふさわしくない。宣教はいつでも、どこでも歓迎されるわけではない。「来る者は拒まず、去る者は追わず」、伝道の基本である。
-マタイ10:11-14「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」。
・しかし、弟子たちが派遣される地は危険に満ちている。そのためイエスは彼らに戒めを与えられた。「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」との戒めである。
-マタイ10:16「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。
・イエス時代の宣教活動においてはユダヤ教当局からの監視の中にあった。「狼の群れに羊を送り込む」というイエスの言葉に、それが表れている。創世記3章の蛇の知恵は悪知恵となっているが、ここでの蛇の知恵は良い知恵である。鳩の素直さは従順の象徴である。しかし、知恵も使い方次第では悪知恵となり、素直と従順だけでは騙されやすい。イエスが蛇と鳩を譬えに用いたのは、どちらにも偏らない、両者の長所を兼ね備えた分別をもてということである。
-ロ-マ15:17-19「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、私はあなたがたのことを喜んでいいます。なお、その上に善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」