- 施しをするときには
・信仰に偽善があってはならない。イエス時代のユダヤ教徒の三つの義務は、「施しと祈りと断食」であった。彼らはそれらの義務を果たしてはいたが、表面だけの心ないものであった。イエスは彼らの心を見抜いて厳しく戒め、真の施しと祈りと断食は、かくあるべきと教えられたのである。
-マタイ6:1-4「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父の報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを、左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる天の父が、あなたに報いてくださる。」
・彼らの慈善活動は、聖書に記されているように、会堂や街角で、本当にラッパを吹き鳴らし、派手にやっていたようである。彼らは慈善活動を目立たせることで世の賞賛が欲しかったのである。彼らにとって、貧者の救済は二の次ぎだった。イエスは、「右手のしたことを左手に知らせるな」と戒めている。右手と左手はいつも共同で何かをしている。たとえば、ピアノは右手と左手、両足まで協力して音楽を創り上げる。右手のしたことを、左手に知らせないことは不可能である。ある宗教団体が慈善事業に寄付したのを、売名行為だと言う人がいた。世間の宗教を見る目の、ほんの一端だと考えられるが、たとえ動機が純粋であっても目立つと、とかく色眼鏡で見られる。「右手のしたことを左手に知らせるな」というのは、善行は人に知らせず、知られずに行い、誉められようなどと、思うなということである。
- 主の祈り
・イエスの時代の敬虔なユダヤ人は、朝、昼、夕と三度の祈祷をしていた。彼らの中には祈りの時間が来ると、街角や広場など人通りの多い所で祈る者がいた。自分たちの敬虔な信仰を見せつけ、誉めてほしかったのである。しかし、人の賞賛を求めたとたん、純粋な信仰を失ったのである。祈りに偽善はあってはならないのである。
-マタイ6:5-8「祈るときもあなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、街道や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。だから、あなたがたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思いこんでいる。彼らの真似をしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
・隠れた場所での祈りは、第三者を加えず、すべてから隔離された場所で、神と相対する真摯な祈りである。悪い祈りの例として異邦人の祈りが引き合いに出されている。異邦人とは、真の神を知らないユダヤ人以外をさすと考えられるが、くどくどと繰り返す祈りに確信は感じられない。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じのだ」から、くどくどと祈る必要はないのである。
-マタイ5:9-13「だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも。私たちに必要な糧を今日与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」
・イエスは無意味な祈りを指摘したうえで、本当の祈りを教えられた。それが「主の祈り」で、すべての祈りの基本である。「天におられるわれらの父よ」は、神への尊敬を込めた語りかけである。この呼びかけが神と祈る者を結び合わせるのである。そして尊敬と共に、父なる神の温情も感じているのである。「父なる神」と呼びかけたとき、呼びかけた者が神の子であることが再確認されるのである。なぜなら、呼びかけた者が神の子でなければ、祈りそのものが意味をなさないからである。
-ガラテヤ4:6「あなたがたが子であることは、神が『アッパ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実から分かります」。
・「御名が崇められますように」「「御国が来ますように」「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」の三つの祈りは神の国の到来を願い、天におけるようにこの地上も神の国となりますように、この地上で起こる事のすべてが、神の望んでおられるようになりますようにという祈りである。次の祈り「必要な糧」、これは人間にとって必要な食べ物のことである。「負い目の赦し」は隣人との関係の修復である。隣人の「負い目」を赦し、自分の「負い目」も赦されなければ、生きて行けないのである。「誘惑に遭わせず、悪者から救って下さい」は明日起こるかもしれない、災いからお守り下さいという切実な祈りである。なぜなら、人にとって明日は未知であり、誘惑という試練に何時遭うか分からないからである。そして自分の罪の赦しを神に願うならば、まず自分に罪を犯した者の罪を赦さねばならないのである。まず赦すことが赦されるための条件であることを忘れてはならないのである。
-マタイ6:14-15「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
- 断食するときには
・一般のユダヤ人は、贖罪の日と新年を迎えるとき、自発的に断食していた。敬虔なユダヤ人は、さらに年に十日の断食や、週に二度の断食をしていた。断食には罪の悔い改めや誓願の意味がある。
-ネヘミヤ9:1-2「その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、灰をその身にふりかけた。イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪科を告白した。」
・しかし、中には、断食の苦行を人に認めてもらいたくて、頭から灰をかぶり、その灰が顔にまで垂れ下がるようにして、断食でやつれた風に見せようとした。彼を見た人々の感嘆を期待したのである。しかし、イエスは言う。「断食しているときは、頭に油を塗り、顔を洗い、普通の顔でいなさい。そのような者にこそ神は報われるのである」と。
-マタイ6:16-18「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためだある。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
4.「仲間を赦さない家来」のたとえ
・主の祈りには赦しの教えがある。赦されるためには、まず赦さねばならないのである。その赦しについて学びたい。テキストは自分は赦されたのに、仲間を赦さなった男の喩えである。
-マタイ18:21-22「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟が私に対して罪を犯しました。何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『「あなたに言っておく。七回どころか七を七十倍まで赦しなさい。」
-マタイ18:23-30「そこで天の国は次ぎのようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金を決済しようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君は家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するよう命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします。』その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」。
-マタイ18:31-35「仲間たちは事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるだろう。』」