1.王の前にどうあるべきか
・コヘレトは現実主義者だ。だから彼は、絶対権力を持つ王には「逆らうな」と語る。
-コヘレト8:1-5「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。それは私だ。すなわち王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている」。
・箴言記者は「神は王に地上の支配権を委託している」と考える故に王を敬えと語る。コヘレトとは立場が違う。
-箴言24:21-22「わが子よ、主を、そして王を、畏れよ。変化を求める者らと関係を持つな。突然、彼らの不幸は始まる。この両者が下す災難を誰が知りえよう」。
・パウロも箴言と同じ立場に立つ。「王の権威は神から来るゆえに王に従え」と彼は語る。
-ローマ13:1-2「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」。
・コヘレトは王を敬うが、しかし絶対化しない。絶大な権力を地上で持つ王も、死の前には無力であることを彼は見つめる。
-コヘレト8:6-8「何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか。人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行う者を逃れさせはしない」。
・神から権力を委託されている王も、常に正しい訳ではないことをコヘレトは知っている。知りながら、彼はそれに逆らわない。彼にあるのはあきらめだ。
-コヘレト8:9「私はこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」。
・人は王を恐れる。逆らえば殺されるからだ。人は神を恐れずに言う「世界にこんな不条理を許している神など信頼出来ない」。神に逆らっても罰は来ないと考えている。だから目の前にいる総督には傷のない子羊を捧げても、神には傷物を捧げて恥じない。
-マラキ1:8「あなたたちが目のつぶれた動物を、いけにえとして捧げても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物を捧げても、悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる」。
・イエスは権力者を恐れなかった。だから彼は殺されていった。しかし殺されたイエスを神は起こされた。キリスト者はそれを知るゆえに、必要があれば権力者に立ち向かう力を持つ。
-使徒4:18-20「(祭司長たちは)二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです』」。
2.この空しい現実の中で何を為すべきか
・コヘレトは悪人が立派な墓に葬られ、義人が人知れず死んでいく現実を見極め、「空しい」とつぶやく。
-コヘレト8:10「だから、私は悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい」。
・人をどのように葬るかは、社会がその人をどう評価したかに関わる、人間の尊厳の問題だ。16世紀に日本にキリシタンが伝えられ、短期間のうちに多くの日本人が改宗してキリスト教徒になったが、何が当時の人々の心を捕らえたのか。歴史学者たちは語る「宣教師やキリシタンたちが、キリストの愛の実践に基づいて、病める者を見舞い、その死を看取り、貧者であっても丁重に葬っていたことに感動した者たちが数多く、キリシタンに改宗した」と(筒井早苗「キリシタンにおける死の作法」、金城学院大学キリスト教文化研究所紀要13,2010年)。
-1555年イエズス会士日本通信「異教徒等はわが死者を葬る方法を見て大いに感激せり、(中略)キリシタン等が最も貧窮なる者に対しても、富者に対すると同一の敬意を表するを見て、その博愛と友情を認め、(中略)我らの主キリストの教えに勝るものなしと言えり」。
・この社会では悪人が立派な市民とみなされ、善人が不当な扱いを受ける現実がある。
-コヘレト8:14「この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、私は言う」。
・義人が敬われない社会においては正義が見失われ、悪を裁く力が低下している。しかしその中にも神の摂理もあるのではないかとコヘレトは希望をかける。
-コヘレト8:11-13「悪事に対する条令が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事をはたらく。罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が、なお、長生きしている。にもかかわらず、私には分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない」。
3.与えられている今を充実して生きよ
・コヘレトは世界を覆う不条理を見つめながら、なお、「その不条理に負けるな」と語る。「世の中が悪であってもあなたは不幸になるな。そのためには現在与えられている生を楽しめ」と彼は語る。
-コヘレト8:15「それゆえ、私は快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」。
・それは刹那的な快楽を求める生き方ではない。そのような生き方が空しいことはコヘレトも承知している。
-コヘレト2:10-11「目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をも私の心は楽しんだ。それが、労苦から私が得た分であった。しかし、私は顧みた、この手の業、労苦の結果の一つ一つを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」。
・「今を楽しみ、与えられているものに満足せよ。それ以上のものを求めるな、この世で成功しよう、出世しようと焦るな。それらは空しいものだ。今日一日を大事に楽しめ」、それがコヘレトの結論だ。
-コヘレト9:7-9「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ」。
・目に見える現実は悪が栄え、善が滅びる日常だ。神が何故そうされるのか、人間にはわからない。しかし、わからなくとも、「主は秘儀に満ちた仕方で働かれる」ことを、彼は信頼していく。
-コヘレト8:16-17「私は知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」。