1.パウロの困難と反論
・パウロは紀元50年頃、コリントで開拓伝道を行い、1年半後にそこに教会が生まれた。その後、彼はエペソの開拓伝道に向かうが、パウロが不在の間、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちがコリントを訪れ、パウロと異なる福音を宣べ、教会の信仰が次第に別のものに変わって行った。エルサレム教会の伝道者たちは、「パウロは直弟子ではないから使徒とはいえない」、「彼は自分の異端的な信仰を教会に押し付けている」と批判したようである。いまだユダヤ教の枠内にいたエルサレム教会の人々は、パウロの律法から自由な、割礼なしの福音を理解できなかった。コリント教会は彼らの影響を受け、パウロに批判的になっていく。その教会に対し、パウロが書いた弁解の手紙の一部が、第二コリント書だ。
・無牧師になったコリントの人々は、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちの批判に同調し、パウロを非難した。彼らはパウロの伝道姿勢に対して疑念を持った。その教会にパウロは反論する。
-第二コリント4:3-4「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」。
・福音を宣教しても多くの人は受け入れない。それは語る内容や語る者の問題ではなく、聴く者の問題なのだ。パウロは「神の言葉を曲げ、受け容れやすい言葉に変えて伝道するようなことはしない」と語る。
-第二コリント4:1-2「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」。
・神の言葉を曲げる一つの典型が、「十字架のキリスト」ではなく、「栄光のキリスト」を宣べ伝えることだ。牧師は語る「キリストは復活されて天におられる。キリストの力を受けて私は癒しを行い、言葉を語る。私を信じない者は地獄に行く」。彼らはキリストではなく、自分自身を宣べ伝えている。
-第二コリント4:5「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」。
・私たちが語るべきは十字架につかれたキリスト、私たちのために死んで下さったキリストのみだ。キリストは十字架を負い、絶望のうめきをあげられた。私たちも自分の十字架を負って従っていく。
-第一コリント2:1-2「兄弟たち、私もそちらに行った時、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。何故なら、私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。
2.この土の器の中に
・パウロは語る「私はみすぼらしい土の器だ。あなた方は私を見て、この土の器には何の価値も無いというかもしれない。しかし、私が土の器だからこそ、神の栄光が現されるのだ」と。
-第二コリント4:7「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。
・ここには二つのことが語られている。一つはパウロが「土の器」と非難されていた現実だ。コリントの人々は福音を伝えるパウロの外形に注目し、パウロを批判していた。
-第二コリント10:7-11「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じく私たちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい・・・私のことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいる。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書く私たちと、その場に居合わせてふるまう私たちとに変わりはありません。」
・それにもかかわらず、パウロの語る福音は「宝」といえるほどの価値を持つ。この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語る
-第二コリント4:8-9「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。
・彼は語る「私たちはイエスの死を体にまとっている」。
-第二コリント4:10-11「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。
・だからパウロは落胆しない。肉の体は日々衰えても、霊の命は日々新たにされていく。あなた方のために苦しむことはイエスのために苦しむことであり、その苦しみを通してイエスの復活の命に預かるのだ。
-第二コリント4:16-17「私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。
・「見えるものは過ぎ去る。だから見えないものを目指して教会を形成しなさい」とパウロは勧める。今日の私たちも見えるものを求めすぎることにより(成長する教会、熱狂する聴衆、立派な会堂等)、誤った福音に迷う。
-第二コリント4:18「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。
・パウロは語る「私が金や銀の器であれば、もっと多くの人が教会に招かれたかもしれない。しかし、私が金や銀の器であれば、人は私を見てキリストを見ない。私の弱さの中にこそ主の栄光が示される」。
-第二コリント12:7-9「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました・・・主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。
3.第二コリント4章についての黙想
・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受ける。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死ぬ。キリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられる(ローマ6:4)。私たちはこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていく。
・日本人は、今現在、決して幸福ではない。調査を見ると、「豊かではあるが幸福ではない」という指標が出ている。これまで日本人を支えていた地域の絆、職場の絆、家族の絆がなくなり始めている。
-栗林輝夫氏「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)という格差社会であり、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域(海外)に移動させ、人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街をシャッター・ストリートにした。かつての日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でも有数の格差社会になってしました。その中で日本の教会は何を発信できるのか」。
・人々は苦しんでいる。それにもかかわらず彼らは教会に救済を求めない、何故だろうか。
-ある人は語る「神は愛だと言うけれど、いったい神は私のために何をしてくれるというのか。神は何もしてくれないではないか。愛の神の存在などとても信じられない」。私たちは答える「見返りを求める信仰はご利益宗教だ」。しかしイエスはこのような答えはされなかった。イエスはその人に寄り添い、彼らの思いを分かち合い、「神は必ず応えて下さる、父なる神はそのような方だ」とお答えになっただろう。
・危機の中にある人々に、教会はキリストの福音を発信して、「生きる勇気」を与えうるか。それが課題だ。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを苦難から立ち上がらせる力を持つのか、私たちはキリストの福音こそ宝であり力を持つと信じるゆえに宣教を続ける。人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時がある。呪われているのではないかとさえ思える時もある。これまでにもあったし、これからもあるだろう。その時、私たちは途方に暮れる。
・パウロも途方に暮れたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。彼は失望から立ち上がる力が与えられた。「十字架で殺されたイエスの体を身にまとって」である。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がる。その神の力は教会の交わりを通して与えられる。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」だ。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況だった。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのだ。世の人々はパウロを敗残者と考えるだろう。現在のパウロは失敗した伝道者、辞任を迫られた牧師、自分の設立した会社から追い出された創業経営者のような惨めな状態なのである。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言う。彼は失望から立ち上がる力が与えられた。それが復活のイエスから与えられる力なのである。