1.愛における一致
・ローマ教会では、「何をしても良い、何を食べても良い」と言う異邦人自由主義者と、「肉は食べてはいけない、安息日は守らなければいけない」と言うユダヤ人禁欲主義者との間に、争いがあった。「互いに裁き合うのはやめよ」とパウロは戒める。ユダヤ教では厳しい食物規定があり、それを守ることが信仰だと考える人々が多かった。
-ローマ14:6-10「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです・・・なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」。
・自由主義者たちは、禁欲的な人々を「信仰の弱い者」として軽蔑し、ユダヤ人信徒は節度を守らない異邦人信徒を「罪人」として裁いた。パウロは、全ては神から与えられたものであり、何を食べても良いと考えていた。しかし、食べることによって誰かが傷つくのであれば、「私は食べない」と言う。「キリストがあなたがた一人一人のために死なれたのに、あなたがたは何故、自己の正当性主張をやめられないのか。キリストはあなたの隣人のためにも死なれたのではないか」とパウロは問いかける。
-ローマ15:1-3「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」。
・「自分の正しさを主張するのは止めなさい。違う人を受入れなさい」とパウロは勧める。何故ならば、キリストもあなたがたを受入れて下さったからだ。
-ローマ15:7「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。
・真珠貝は自分の中に異物を入れられ、痛みから免疫反応を起こして、美しい真珠を形成する。他人を受入れる時、その痛みが信仰の実となっていく。「キリストは自分を受入れない人のためにも死なれたではないか。キリストは十字架上で自分を殺そうとする者たちのために祈られたではないか」とパウロは問う
-ルカ23:34「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」
・私たちの神は希望の神だ。神は「人の悪を善に変えてくださる力」をお持ちの方だ。それを信じて行く。
-ローマ15:13「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」。
2.お別れの言葉
・パウロは激しい言葉で手紙を書いた。教会に争いがあったからだ。しかし、教会はその争いを超えて、一致できることをパウロは信じている。「私の言葉が神の栄光のために話されたことを信じて欲しい」とパウロは語る。真の牧会者と偽者を分けるものは、「自分の栄光を求めるか、神の栄光を求めるか」である。
-ローマ15:18-19「キリストが私を通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、私の言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうして私は、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」。
・ローマ書は15:22以下が結びの挨拶となり、パウロは帝国の首都であるローマに行きたいと思いながら、行けなかった事情を語る。今、エルサレム教会への責務(異邦人教会から集められた献金を持参する)を果たせば自由になるから、あなた方の所へ行きたいと彼は書き送る。
-ローマ15:22-25「あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行く時、訪ねたいと思います・・・しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」。
・最後に、パウロは、全ての争いをも平和へと導いてくださる平和の神に祈る。
-ローマ15:33「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン」。
3.それからのパウロに起きた出来事
・パウロは今、エルサレムに向かおうとしている。異邦人教会からの献金をエルサレム教会に届けるためだ。そのエルサレムでは、「投獄と苦難」が待っていると彼は認識している。それでも彼はエルサレムに向かう。イエスも死が待っていることを承知の上でエルサレムに行かれ、十字架で死なれたようにで、ある。
-使徒言行録20:22-24「そして今、私は、"霊"に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
・パウロはエルサレムで、ユダヤ過激派の人々に襲われ、捕らえられ、2年間カイザリアの牢獄に幽閉された。エルサレム教会はパウロの助命のために何の努力もしなかった。しかし、パウロはくじけなかった。彼は獄中からローマ皇帝に上訴し、裁判を受けるためにローマへ移送される。その結果、パウロは夢にまで見たローマに行く。彼のローマ行きは思いもかけない方法で実現される。これが神の摂理だ。
-創世記45:4-8「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」。
・パウロの伝道活動は失望の連続だった。しかしパウロは希望を捨てなかった。自分の活動は神の御心に沿っていることを信じていたからだ。パウロはローマで殉教したと言われている。人間的に見れば無念の死となろうが、信仰的に見れば、栄光の生涯だ。人にとって最も大事なものは何だろうか。華々しい成功をおさめることか。生前のパウロは現在のような「大使徒」との評価を受けていなかった。パウロの評価が高まったのは、紀元70年にエルサレムがローマに破壊され、エルサレム教会が消滅した後に、教会の主力がコリントやローマの異邦人教会となり、異邦人伝道に尽くしたパウロの評価が高まってからである。
-ヘブル11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」
・多くの偉人の生涯も似ている。画家のヴァン・ゴッホの評価が高まったのは彼の死後で、生前に売れた絵は1枚だけ、その値段は400フラン(4万円)だったという。いま彼の絵は数十億円で取引されている。
-ローマ8:28「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように神が共に働く」。
・人の生涯の意味を何なのか。他者評価ではないだろう。イザヤは歌う「私を裁いてくださるのは主」だ。(イザヤ書49:4「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」)。
・創世記注解者リュティはヨセフ物語注解で語る「バプテスマのヨハネは荒野で生活し、ヘロデ王の城内にある地下牢で処刑されます。パウロは多くの刑罰を受けながらも福音伝道を続け、最後はローマで処刑されました。神は十字架上から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫ばれた御子イエスを十字架に残されました。しかし神はそこにおられました・・・艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることへの反証ではありません。むしろ、神が我々と共におられることの証拠です」(ヴァルター・リュティ「創世記講解25-50章」223p)。
・与えられた出来事を災いと思う時、その出来事は人の心を苦しめる。しかし出来事を神の摂理と理解した時、新しい道が開ける。ヨセフは不当な罪で投獄されたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎で、この投獄がやがてヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となる。その時のヨセフには先は見えなかったが、主の導きを信じて待った。パウロのローマ行きは、逮捕・監禁という苦難を通して、実現する。これが人間には計り知ることの出来ない神の摂理だ。神は時に私たちを「危険や苦難から救出するのではなく、ある時には、危険や苦難を通して、その業を実現させられる」。人間は計画し、神が導かれる。人間の計画通りには物事は進まない。しかし最後の結果を見て人は驚嘆する「神の御業は素晴らしい」と。
-箴言16:9「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えて下さる」。