江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月12日祈祷会(ローマの信徒への手紙6:15-23、肉の命に死に、霊の命に生きる)

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1.義のために身を捧げる

 

・パウロは6章で二つの生き方を私たちに提示する。一つは「命を自分のために用いる」生き方であり、パウロはこれを「体を罪に支配させる」生き方だと語る。もう一つの生き方は「命を自分以上の者に捧げる」生き方であり、パウロはそれを「義のために自己を捧げる」生き方だと語る。

-ローマ6:12-14「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

・人は、罪か義か、この世か神か、いずれかに依存する生活を送らざるを得ない存在だ。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)からだ。

-ローマ6:15-16 「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」。

・パウロは、「奴隷の喩え」を用いて信仰の奥義を説明する。

-ローマ6:17-18「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕える者となりました。」

・パウロは罪を制御できないまま、自我の欲望に翻弄されている者を「罪の奴隷」といい、自我の欲望を捨て、神の意に従う者を「義の奴隷」という。

-ローマ6:19「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体の汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」

・パウロは、人間が肉の欲望を制御できないさまを「肉の弱さ」と言い、その結果としての状態を「五体の汚れ」、「不法の奴隷」と言う。その結果は死である。

-ローマ6:20-21「あなたがたは、罪の奴隷であった時は、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたは今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」

・パウロは「罪の奴隷であった時は、恥ずかしい実りしかなかったではないか」と問い、それに対して「義の奴隷になることのすばらしさ」を力説する。

-ローマ6:22「あなたがたは、今では罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。」

・罪の報酬は死であり、義の報酬は永遠の命である。パウロのいう「死」は「肉体の死」ではない。肉体の死は誰にも訪れる。パウロの語る死は「魂の死」である。パウロは、「罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、イエス・キリストによる永遠の生命を得なさい」と励ましている。

-ローマ6:23「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」

・子を中絶する人は「自分の子だから自分の自由にする」といい、酒や放蕩に身を崩す人は、「自分の人生だから自分で決める」と勧告を拒絶する。自由がその人を幸せにしないのは明らかだ。むしろ「自分以上のものに」、例えば仕事や子育てや運動に打ち込んだ時、人は生きがいを感じる。人ではなく神に身を捧げない限り、本当の満たしは来ない。神は失望した私たちの叫びを聞いてくださるからだ。

-イザヤ49:4「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力。」

 

2.義の奴隷となるとは「聖なる生き方」をすることだ

 

・パウロは私たちに「聖なる生活を送りなさい」と勧める。聖化、清められることである。私たちはバプテスマを受けた時、この世に対して死ぬ。

-ガラテヤ6:14「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。」

・現実の生の中で、「キリストにある新しい命を生きる」とは何かを私たちは模索する。信仰に生きる建設会社の社員は談合を拒否し、食品会社の社員は食品偽装を内部告発するようになる。その時、「世は彼を憎む」。私たちの信仰は世の不正を黙認しない。ナチスと戦ったドイツの牧師・マルティン・ニーメラーの言葉は印象的だ。隣人を愛するとは「行動する」ことだ。

-「ナチスが共産主義者を襲った時、自分はやや不安になった。けれども自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチスは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。それからナチスは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた」(丸山眞男訳、「現代における人間と政治」(1961年))

 

3.罪の赦しと共に、清めは始まる

 

・罪が赦された後、私たちが依然と同じ状態のままでいてはいけない。罪の赦しは聖化、清めを伴わなければいけない。ヨハネ8章「姦淫の女の物語」は聖化の意味を教える。イエスのもとに、人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて訊ねた「こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています」(ヨハネ8:5)。イエスは答えられた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が石を投げなさい」(同8:7)。すると、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った」(同8:9)。イエスは身を起して女に言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。

・ここに罪の赦しと「聖化」が鮮やかに語られている。「私もあなたを罪に定めない」、ここに赦しがある。「これからは、もう罪を犯してはならない」、これが聖化である。聖化された人間はもう自分のためには生きない。それが「新生」(新しい生き方)だ。新生とは今まで自分中心で生きていた人生が神中心の、「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことだ。そのためには古い自分に死ななければいけない。ヨハネはイエスの言葉を紹介する「一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と。

-ヨハネ12:24-25「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

・トルストイの小説「復活」は印象的だ。主人公ネフリュードフは、ロシヤ貴族で若い時、情欲の赴くままに、小間使いカチューシャを誘惑し、自分のものにした後、やがて捨ててしまう。それから10年後、ネフリュードフが陪審員として裁判所に行った時、そのカチューシャが売春婦となり、殺人罪で起訴された事件を担当する。自分が、昔もてあそんだ女性が、妊娠して屋敷を追われ、生まれた子は孤児院で死に、本人は売春婦として殺人容疑で裁かれようとしているのを見て、彼は犯した罪の大きさを知る。彼はカチューシャの釈放のために、刑務所を訪問する中に、多くの人々が貧しさゆえに罪を犯し、苦しんでいるのを知り、他の受刑者のためにも奔走するようになる。

・トルストイは物語の最後にマタイ福音書21章「ぶどう園の農夫の譬え」を引用し、主人公ネフリュードフに語らせる「農夫たちは、ぶどう園を借りているのに、いつの間にか、その収穫物はみんな自分たちのものであり、自分たちの仕事は暮らしを楽しむことだと考え、主人のことを忘れてしまう」。ネフリュードフは「同じことを我々もしているのだ」と考える。「我々は自分の生活の主人は自分自身なのだとか、この人生は我々の享楽のために与えられているのだとか、愚にもつかない確信を抱いて生きている。そんなことは明らかにばかげている。我々がここに送られてきたのは誰かの意思であり、何かの目的があってのことではないか。我々はただ自分の喜びのために生きているのだと決め込んでいるが、主人の意思を実行しなかった農夫と同じように、我々もひどい目にあうだろう。神なる主人の意思に人々が従い始めた時、この地上に神の王国が樹立され、人々は到達しえる限りの最大の幸福を手に入れることになるのだ」と彼は悟る。これが、肉の命(プシュケー)に死に、霊の命(ゾーエー)に生きる生き方ではないか。

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