1.ユダヤ人と律法
・パウロは最初に異邦人の罪を指摘した。異邦人は神を知りうるのにこれを知ろうともしなかった。他方、ユダヤ人は神を知っており、異邦人を罪人と裁きながら、行っているのは異邦人と同じだった。
-ローマ2:1-2「人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。
・パウロは2章後半でユダヤ人の罪を鋭く指摘する。「ユダヤ人は、自らを律法の民、神の民として誇り、為すべき事を律法に教えられ、すべてをわきまえている」と称していた。
-ローマ2:17-18「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法に教えられて何を為すべきかをわきまえています。」
・彼らはまた、「神を知らない人々に神を伝える教師」たることを自認していた。
-ローマ2:19-20「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」
・しかしパウロは彼らの偽善を指摘する。「あなたたちは他人に教えながらなぜ自分では学ぼうとしないのか」、「あなたたちは盗むなと教えながらなぜ自分は盗むのか」、「あなたたちは姦淫するなと教えながらなぜ自分は姦淫するのか」とパウロは追求する。
-ローマ2:21-22「それならば、他人には教えながら自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら神殿を荒らすのですか。」
・「律法に仕える者が守るべき当然の行いをあなた方は守っていない。あなた方の律法違反の行為こそが、異邦人の中で神の名を汚している」とパウロは批判する。
-ローマ2:23-24「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてある通りです。」
*歴史はローマにおけるユダヤ人たちの争いについて伝える(「クラウディウス帝の時代(紀元49年)にユダヤ人キリスト者は騒乱罪によりローマから追放された」(スエトニウス「皇帝伝」)。
2.割礼と律法
・ユダヤ人たちは、「割礼を神の民のしるし」として誇っていた。しかしパウロは、「割礼は律法を守ればこそ価値がある。律法を守らなければ無割礼と同じだ」と批判する。
-ローマ2:25-26「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないと同じです。だから、割礼を受けていない者が律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者とみなされるのではないですか。」
・「体に割礼を受けていなくても、律法を守っている者(異邦人)があなた方を裁く」とパウロは批判する。
-ローマ2:27「そして、体に割礼を受けていなくとも律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。」
・だから、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではない」、「外見上の割礼が割礼ではない」、「知っているだけで実行のない律法は何の価値もない」とパウロは語る。
-ローマ2:28-29「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉は、人からではなく、神から来るのです。」
3.パウロはローマ2章で何を言いたいのか
・パウロが言いたいのは、すべての人の罪に対する神の怒りである。その罪をパウロはロ-マ人の手紙1章18節から3章20節にかけて書き、その結論部分が3章9節以下である。
―ロ-マ3:9-12「では、どうなのか。私たち(ユダヤ人)に優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の中にあるのです。次のように書いてあるからです。『正しい者はいない。一人いない。悟る者もなく、神を捜し求める者もいない。皆迷い、誰も彼も役に立たない者になった。』」
・パウロは、異邦人の罪を「偶像礼拝」という一点に絞って追及し、今はまたユダヤ人の罪を「他者を裁く」という一点において見る。ユダヤ人たちは「自分たちこそ神の民だ。そのしるしとして割礼を受け、律法が与えられた」と誇っていた。しかしパウロは「本当にそうか、あなたがたは異邦人と同じ罪の行為をしているではないか」と問う。
-ローマ2:17-22「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何を為すべきかをわきまえています・・・それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。盗むなと説きながら、盗むのですか。姦淫するなと言いながら、姦淫を行うのですか」。
・その後で、パウロはユダヤ人に向かって、「割礼が救いの要件ではない」と言う。
-ローマ2:25「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか」。
・割礼は神の義を求めて生きない者にとっては、単なる体の傷に過ぎない。
-ピリピ3:2-3「よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」。
・バプテスマも同じだ。ローマ2章の割礼を「洗礼」と読み替え、律法を「御言葉」と読み替えた時、パウロの言葉は、私たちへの言葉となる。「割礼が救いの要件ではない」のであれば、「洗礼さえ受ければ救われる」という誤った信仰を私たちは捨てる必要がある。
-ローマ2:25「あなたが受けた洗礼も、御言葉を守ればこそ意味があり、御言葉を破れば、それは洗礼を受けていないのと同じです。だから、洗礼を受けていない者が、御言葉の要求を実行すれば、洗礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか」。
4.ローマ2章の黙想
・パウロは厳しい言葉をローマの信徒に送る。読んだ人は不愉快になっただろう。しかし、その厳しさゆえに、このローマ書はたびたび歴史を塗り替える働きをしてきた。「罪を知る」ことが救いの第一歩であるからこそ、パウロはローマ教会内のユダヤ人信徒、異邦人信徒に厳しい言葉を投げかける。これは現代日本人の救いを考える上でも大事なことだ。仏教的考え方によって養われてきた日本人は、聖書の語る「罪」や「神の怒り」について理解できない所がある。
・広島の原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」と書かれている。ここにおいては、戦争が過ち=間違いであった、起こるはずのないものが起こったとの認識がある。しかし人間は有史以来戦争を繰り返し、今も戦火が絶えない現実を見る時、それは単なる過ちではなく、人間の本質に関わる問題、すなわち罪の問題であることがわかる。戦争を繰り返さないためには、過去を忘れることではなく、過去を見つめ、争いが人間の本質的な罪から来ることを見つめることが必要だ。この罪の問題を認めない限り救いはない、だから私たちは罪の問題を徹底的に追及するローマ書を読む必要がある。
・人は批判を通しては悔い改めることができない。いくら罪を指摘されても反発するだけだ。人を悔い改めに導くものは、人格を通して示された愛だ。自分がキリストの愛によって赦されたと知った時、人は自分の罪を知り、キリストの前に跪く。
-ローマ3:23-24「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。
・私は20歳の時に水の洗礼を受けた。教会には行っていたが、生活は何も変わらなかった。週6日は会社員としてこの世の慣わしに従って行き、日曜日は教会に来て、それで十分正しい生き方をしていると思っていた。社会人として、夫として、父親として、責められるところは無いと思っていた。その自分が、どうしようも無い罪人であることを知らされたのはそれから25年後、45歳の時である。息子との不仲を通して過ちを犯し、その報いが自分の生活を具体的に犯し始め、家族関係が耐え難いものになって初めて、自分が罪の縄目の中にいることがわかった。そしてパウロのように泣き叫んだ「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。これを契機に聖書を学び直すために東京バプテスト神学校に入学した。