1.反対者に対するパウロの反論
・パウロはコリント教会のパウロ批判者に対して反論した。牧会者は批判に対しては沈黙すべきだと言われる。パウロは反論が愚かな業であることを認識しているが、反論する。
-第二コリント11:1「私の少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています」。
・反論の理由は彼がコリント教会を自分の娘のように愛しているからだ。手塩にかけて育て、嫁に出した娘が誘惑者(エルサレム教会の保守派たち)の言葉に唆されて道を踏み外そうとしている。パウロは無関心でいることは出来ない。
-第二コリント11:2-3「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いを私も抱いています。なぜなら、私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪巧みで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています」。
・教会があるべき方向からそれてしまう。コリント教会の場合、ユダヤ主義的福音(割礼や食物規定等の律法を守ることによる救い)によって、違った方向(異なったイエス、異なった霊、異なった福音)に行き始めていた。パウロはそれを痛烈に皮肉る。
-第二コリント11:4「あなたがたは、だれかがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです」。
・教会を正すためにパウロは反論する。反論の第一は自給伝道に対する誤解の払拭だった。パウロは、伝道者は信徒からの献金で生活する権利があるが、自分はそうしなかったと弁明する。
-第二コリント11:5-8「あの大使徒たちと比べて、私は少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、私たちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、私は罪を犯したことになるでしょうか。私は、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました」。
・それは間違っていたのかも知れない。無給の宣教師によって育てられた教会、他から援助を受けている教会は何年たっても自立できないことが多い。信徒自らが献金を負担して牧会者を支援しない時、教会は成長しない。献金する痛みが教会には必要なのである。
-第二コリント11:9-12「あなたがたの下で生活に不自由した時、だれにも負担をかけませんでした・・・私は何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。私の内にあるキリストの真実にかけて言います。このように私が誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。私があなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、私たちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです」。
2.愚者の誇りから、キリストにある弱さへ
・パウロは反論のために自己の苦難を述べる。パウロは反論が愚かであり、自分を誇っても人は従ってこないことを知っている。しかし反論せざるを得ない。
-第二コリント11:16-17「だれも私を愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、私を愚か者と見なすがよい。そうすれば、私も少しは誇ることができる。私がこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです」。
・巡回伝道者たちは自分たちがユダヤ人であることを誇るが、私は彼ら以上にユダヤ人としての教育を受けてきたとパウロは語る。パウロはファリサイ派の教育を受けた律法の教師であった。
-第二コリント11:21-22「言うのも恥ずかしいことですが、私たちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、私もあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。私もそうです。イスラエル人なのか。私もそうです。アブラハムの子孫なのか。私もそうです」。
・巡回伝道者たちは、「自分たちはキリストのために苦難を受けてきた」と誇るが、「私はそれ以上の苦難を受けてきた」とパウロは語る。
-第二コリント11:23-27「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし・・・しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」。
・自分の苦難の歴史を語りながら、パウロは次第にキリストの苦難を語り始める。「教会で弱っている人をキリストは憐れまれる。キリストと共に弱められることこそ、私の本当の誇りなのだ」と。
-第二コリント11:28-30「このほかにもまだあるが、その上に、日々私に迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。誰かが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、私の弱さにかかわる事柄を誇りましょう」。
・「自分の弱さを誇る」、そこに本当の誇りがあることをパウロは知っている。誇るべきは主であり私ではない。自己推薦から始められた語りがキリストにある弱さを誇るようになった。
-第二コリント12:9-10「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。
3.第二コリント11章の黙想「弱さを誇る」
・パウロは「肉によって自己を誇り始めた」が、最後には「自分の弱さ」を誇る。キリスト者は自分の弱さを認める事ができる。何故ならば、キリストも弱さの故に十字架にかけられたが、神がその弱さを「復活」という手段を用いて逆転され、その結果キリストが今も生きておられることを知るからだ。
-第二コリント13:4「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」。
・パウロ行伝によれば、彼は「背が低く、頭ははげ、足は曲がっていた」。外見は良くなかった、しかも病気がちで,説教も下手だったと言われている(10:10)。彼は伝道者に向かなかった、弱かった、だから彼は「使徒の中の使徒」と呼ばれるほどの偉大な仕事をすることが出来た。自分の弱さを認め、受け入れる時、キリストの力が働いて、私たちは能力以上の仕事が出来る。私たちに必要なものは強さではなく、弱さだ。召命を受ける、召されて働くとは、キリストの力をいただいて、弱さの中に働くことである。
・三浦綾子さんもそうだ。彼女は信仰に立つ多くの小説を書き、彼女の本を読んで、教会の門をたたくようになった人も多い。三浦綾子さんが何故このような働きが出来たのか、彼女が強かったためではなく、弱かったからだ。彼女は多くの闘病体験をしている。人生の三分の一は病気のために入院している。この弱さ故に彼女はキリストを求め、病気は彼女に人生とは何かを教え、彼女を偉大な作家にした。人は苦難を通して弱さを教えられ、その弱さが神を求める叫びになり、その叫びに応じて、神は人に力を与えるのではないだろうか。
-三浦綾子「泉への招待」から「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ・・・神を信じる者にとって、神は愛なのである・・・神の下さるものに悪いものはない、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。
・コリント教会は頑なだった。この頑なさがパウロにコリント教会への第二の手紙を書かせた。パウロは怒りのままに手紙を書き進め、その怒りが、「神の力は弱さの中で働く」と言う真理を見出させた。ここに福音がある。神が私たちを愛し、救ってくださる事を信じていく時に、弱い存在が強くなっていく。教会は弱さを誇れる唯一の場所だ。教会には男性はあまり来ない。多くの男性は自分の弱さを認めることが出来ない、弱さを認めることは負けだと教育されている。日本の自殺者は3万人だが、自殺者の70%は男性だ。男性の自殺者は女性の2倍を超える。弱さを認めない人は実は強くない。パウロが見出した通り、「神の力は弱さの中で働く」。