1.ローマ書はどのような手紙か
・パウロの書いた「ローマの信徒への手紙」は、パウロが帝国の首都ローマの教会に宛てた書簡だ。このローマ書は、世界史を変革してきた書である。ルターが「信仰のみ(ソラ・フィデ、Sola fide)」の真理を見出して、宗教改革を始める契機になったのはローマ書であり、内村鑑三「ローマ書の研究」は日本の教会の礎を作ってきた。現代神学の祖といわれるカール・バルトの出発点もこのローマ書だ(1919年「ローマ書」第一版、22年第二版)。何故この書はそのような衝撃を読者に与え続けて来たのか。
・パウロはコリントにいる。彼は2年にわたったアジア州の伝道活動を終え、エルサレムに渡るための船便を待っている。異邦人教会からの献金を携えてエルサレム教会へ行くためだ。コリントやエペソ等の異邦人教会と、エルサレムのユダヤ人教会の間には、信仰の在り方をめぐって、色々な対立があった。パウロは異邦人教会からの捧げ物をエルサレム教会に持参し、和解の使者になろうとしている。しかしパウロの心は西へ、ローマに惹かれている。パウロは手紙の結びで、ローマを訪れたいとの希望を述べる。
-ローマ15:22-25「あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行く時、訪ねたいと思います・・・しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」。
・書簡の宛先はローマにいる信徒たちだ。パウロは自分を「キリストの僕、召されて使徒となった者」と紹介し、同じくローマ教会の人々を「召されて信徒となった者」として、手紙を書く。信徒もまた召命を受けて、教会に集う者とされたのだ。
-ローマ1:1-7「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから・・・神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」。
・パウロは挨拶の中で、福音とはイエスの「良き知らせ」であり、イエス・キリストとは「肉によればダビデの子孫、霊によれば神の御子である」と述べる。
-ローマ1:2-4「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によれば、ダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」
・パウロは手紙としてこの書を送ったが、内容は手紙の範囲を超え、福音を伝えたいと願う思いが溢れ出て、1節から7節までの長い挨拶文になっている。
-ローマ1:5-6「私たちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストの者となるように召されたあなたがたもいるのです。」
・パウロは、祈りの言葉で挨拶を結んでいる。
-ローマ1:7「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。私の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
2.ローマ訪問の願い
・パウロは、生涯にわたって幾度も伝道旅行に出かけ、当時の地中海世界を巡り、各地に福音を伝え、教会を建てた。しかしローマに行ったことはない。
-ローマ1:8「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」
・パウロは何度もローマ訪問を企てたが、願いはかなえられなかった。
-ローマ1:9-10「私は御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、私は、祈る時にはいつもあなた方のことを思い起こし、何とかして、あなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」
・ローマは世界の中心であり、一切がそこへ集まり、そこから出て行く場所だ。パウロはそこに自分に委ねられた福音を確立し、そこを拠点として全世界に福音を伝える働きを進めたいと願っている。だからパウロは彼らに語る。「あなたがたに"霊"の賜物を分け与えて、力になりたい。互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」と語る。
-ローマ1:11-12「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたの所で、あなたがたと私が互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」
・パウロは、何度もローマ行きを阻まれたことを、悔しさをにじませながら述べている。
-ローマ1:13「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたの所でも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらへ行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。」
・パウロは「異邦人への使徒」としての使命感を語る。彼は「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも」語る責任を持つ。「未開の人」、ギリシア語を話さない帝国西部の人々を指す。文明の種類を問わず、文化や教養の程度を問わず、人がいる所に福音が伝えられなければならない、世界全体に福音を満たす責任があると感じているパウロは、世界の中心地であるローマに福音を知らせることを熱望する。
-ロ-マ1:14-15「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ロ-マにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」
3.福音の力
・パウロは言う「私は福音を恥とはしない」。当時の人々は、ローマ皇帝を「救い主」(キュリエ)と呼び、その政策を「福音(良い知らせ)」と呼んだ。それに対して、聖書は皇帝アウグストゥスの時代に生まれ、その子ティベリウスの時代にローマによって処刑されたイエスを「救い主」と呼び、その教えを「福音」と呼んだ。キリスト者の行為は、世の常識から見れば信じられないような、反逆の行為だった。だからキリスト者は迫害されていく。福音を恥とする状況、福音の宣教が悪評と嘲笑を招く状況があったことをパウロは認識している。
-ローマ1:16「私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
・福音には、人智をもって量り知ることのできない神の全能の力が秘められている。そして、その力は信じる者の生涯を通じて現される「正しい者は信仰によって生きる」のである。
-ロ-マ1:17「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」
・パウロは「福音には神の義が啓示されている。それは初めから終わりまで信仰を通して実現される」と語る。パウロはローマ教会内のユダヤ人信徒に対して、「人を救うのは律法の行いではなく、信仰なのだ」と語っている。宗教改革者ルターはパウロのこの言葉から、「人が救われるのは、教会が定めた様々の行為、業績を積み上げることによってではなく、神を信じ、神がキリストにおいて為された救済行為を信じる、その信仰による」(信仰義認)として、カトリック教会の功績主義を否定し、宗教改革を断行した。
・1:17を新共同訳は「初めから終わりまで信仰を通して」と信仰が強調されているが、原文では「信仰から信仰へ」、すなわち「神の信実から人の信実へ」であり、救いは「神の信実」によってもたらされるとパウロは語っている。救い(神の信実)が先にあり、その応答として信仰(人の信実)がある。それを逆にする「信仰がなければ救われない」とは教会が創りだした「誤った教理」であり、パウロもイエスも述べていない。イエスや使徒たちから時を経るに従い、信仰が強調されるようになり、「信じない者は救われない」、「洗礼を受けていない人は救われない」と信仰が新しい律法のようになってきた。これは「割礼を受けないと救われない」と主張していたユダヤ人キリスト者と同じだ。
-上村静・「イエス、人と神へ」から「イエスの伝える神の支配のメッセージは“人は良いものではないが、そのままで生かされてある”というものであった。イエスの復活顕現を体験した弟子たちは、“キリストの出来事によって人の罪は赦される”と信じた。両者とも『人は罪を背負った存在であるが、その人間を神は一方的に受容する』と語る。これが福音である。イエスも弟子たちもパウロも、それを宣べ伝えようとした。しかし、やがて教会は、福音を告げ知らせるだけでなく、その受容(信仰)を救済の条件にしてしまう。それはもはや“良い知らせ”ではない」。
・イエスは放蕩息子の父親の喩えを通して、無条件に赦す神の恵みを語られた。無条件の赦しを与えるこの父親こそ、イエスが示された「神」である。福音=良い知らせとは神の側から為された無条件の赦し(十字架の贖い)の出来事であり、私たちは感謝してそれを受ければ良い。てんかんを患う子の父親はイエスに叫んだ「信じます。信仰のない私をお助け下さい」(マルコ9:24)。これこそが正直な信仰の言葉ではないか。絶望してもなお神の名を呼び続ける、イエスが絶叫された「わが神、わが神、どうして」という現実の中で、神を求め続けることこそが人間の信実なのだ。