江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年11月22日祈祷会(第一コリント13章、愛がなければすべてが虚しい)

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1.異言を語っても愛がなければ虚しい

 

・第一コリント13章は「愛の賛歌」として有名だ。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」、美しい言葉が迫ってくる。パウロは愛の讃歌をコリント13章に書く、それは愛の賛歌を書かざるをえない状況がコリント教会にあったからだ。教会の中に、派閥争いがあり、姦淫があり、財産を巡る争いもあった。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱えていた。そこには愛が欠けていた。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、愛なのだ」と書き送る。この愛はアガペー、相手に配慮することだ。

・コリント教会では、霊的賜物としての異言が重視され、異言を語らない者は霊のバプテスマを受けていないと軽蔑された。そこには相手を見下す愛の欠如がある。

-第一コリント14:1-4「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ励まし慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。

・今日の言葉で言えば、異言は霊的熱狂、預言は説教の言葉である。パウロは異言を無視しないが、それは教会を形成しないから、「教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る」(14:18-19)と述べる。13章の愛についての言説もその文脈で語られている。ここでは人間的な愛(エロス)が讃美されているのではなく、アガペーが語られている。

-第一コリント13:1-2「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。

・どらやシンバルは異教の礼拝で用いられ、人を陶酔に導くための手段となる。黒人教会で歌われるゴスペルでも、同じ節が何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーに招いていく。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではない。霊に酔って恍惚状態になって語られた言葉は誰も理解できない。それは騒がしいどら、やかましいシンバルと同じだ。

-第一コリント14:13-16「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい・・・仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです」。

・今日、最も成長している教派は異言や神癒を強調するペンテコステ教会とされる。人々は日常を離れて陶酔できる場所を求めている。彼らは伝統的教派を「ラオデキア教会のように熱くも冷たくもない」と批判する。その批判は当たっている。しかし同時に一時的な陶酔で人生の諸問題が解決されるのでもない。

-ヨハネ黙示録3:15-17「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

 

2.愛は教会を造り上げる

 

・コリント教会の人々は、分派を形成して争っていた。彼らは、自分たちの知識や信仰を誇り、高ぶっていた。これは全て「愛の欠如によるものだ」とパウロは迫る。13章4節から始まる言葉は有名だ。

-第一コリント13:4-7「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

・ここには愛に関する15の定義があるが、そのうち八つは否定形だ。「妬まない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形なのか。コリントの人々は「妬み、高ぶり、いらだつ」存在だったからだ。だから、「妬むな」、「高ぶるな」、「いらだつな」とパウロは語る。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではない。愛とは誰かを愛するという感情的なものではなく、相手に仕えるという信仰の出来事なのだ。感情に基づく愛は消えるが、信仰に基づく愛は永続する。終末の時、異言も説教もすたれるが、愛は滅びない。

-第一コリント13:8-10「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」。

・イエスが教えてくれた愛とは、「他者のために死ぬ」ことだ。

-ヨハネ15:12-13「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。

・霊的賜物を受けて、天上の世界を垣間見たとしても、それは不完全であり、私たちには全てはわからない。それを完全に知っているように話すことは誤りだ。愛がなければ、異言も神学も無益である。

-第一コリント13:12-13「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。

 

3.コリント13章をどう読むか

 

・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがある。本田哲郎は語る「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人等への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書で言う愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続けるかぎり、薄れも途切れもしない」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。

・エロスとフィリアは人間関係を豊かにする。夫婦が愛し合い、友を大切にすることはとても大事な愛だ。しかし、それらは感情的な愛であり、基本は好き嫌いであり、人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか消滅する。人は自己のために相手を愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消える。この愛の破綻に私たちは苦しむ。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じている。だから私たちは裏切られることのない愛、アガペーの愛を知ることが必要なのだ。

・愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではない。私たちの中にあるのは自己愛=エロスとフィリアだけだ。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。しかし、神はそのあなたを子として下さった。それを知った時、教会の兄弟姉妹も同じ神の子として、あなたの兄弟姉妹になる。聖書の愛(アガペー)に最も近い言葉は「Respect」、相手を尊ぶ、大切にする心だ。

・マルテイン・ルーサー・キング牧師は、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行った。当時、キングは黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていた。そのような中で行われた説教だ。

-キングの説教から「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった・・・しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。

・私たちが教会で求めるべきは、自己の救い、自己の達成ではなく、「他者の利益を追い求める」ことだ。他者の救い、隣人の喜びがわが喜びになった時、教会は教会になり、私たちは本当の生きる喜びを知る。

-ボンフェッファー「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である・・・教会は、あらゆる職業の人に、キリストと共に生きる生活とは何であり、他者のために存在するということが何を意味するかを、告げなければいけない」(D. ボンフェッファー「獄中書簡」439-440p)。

・パウロは語る「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」、しかし「愛は決して滅びない」(13:8)。神の国が来る時、神は私たちと共にいる。もう預言を通して神を知る必要はなく、異言を通して神の声を聴く必要もない。そして終末の時にも「愛だけは残る」。何故ならば神は愛そのものだからだ。教会はその終末を先取りする共同体だ。どのような問題を教会が抱えていようが、どのように不完全であろうとも、どのように醜い現実がそこにあろうとも、教会は神の国共同体だ。だから、私たちはこの教会から離れない。それはキリストの血によって購われた共同体なのである。だから、教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能なのだとパウロは私たちに呼びかけている。私たちは自分の救いを求めて教会に来るのではない。何故ならば、私たちはもう救われている。私たちが教会で求めるべきは他者の救い、隣人の喜びなのだ。その隣人との間を規定する言葉こそ「愛」なのである。

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