1.エマオに現れたイエス
・ルカは、十字架に死なれたイエスが三日目に復活されて、エマオに向かう二人の弟子たちに現れたと記す。しかし弟子たちは同行する旅人がイエスであることがわからなかった。
-ルカ24:13-16「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、二人でこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかし二人の目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」。
・弟子の一人はクレオパ(24:18)、もう一人は息子のシモンであったと言われている。ギリシャ名=クレオパ、ヘブル名=クロパ。このクロパの妻はイエスの十字架に立ち会っている(ヨハネ19:25)。おそらく、彼等の家はエマオにあった(24:29)。彼らは過ぎ越しの祭りに神殿に参詣するために一家でエルサレムに行った。そこでイエスの十字架を目撃し、失意の中に、親子でエマオに帰るところであったと思われる。ルカ24:13を推測も交えて具体的に書き直せば、次のようになろう。
-推定訳「紀元30年の春、週の初めの日、イエスの十字架から三日目の午後二時ころ、イエスの弟子であるクレオパとその子シモンが、エルサレムでイエスの十字架を目撃し、失意の内に、自分たちの家のあるエマオに向かって歩いていた」。
・弟子たちは「イエスが死なれて望みは絶えた」という嘆きと、「今朝、仲間の婦人たちが墓に行くと遺骸が無くなっていた」こと等を、ため息混じりに話し合っていた。そこにイエスが近づかれ、彼等と一緒に歩かれた。弟子たちは相変わらず同行者がイエスであることに気づかない。
-ルカ24:17-24「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』イエスが、『どんなことですか』と言われると、二人は言った。『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。』」
・イエスは彼らの物分かりの悪さを嘆かれた。
-ルカ24:25-27「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。
・エマオに着いた時、二人の弟子は先へ行こうとするイエスを無理に引き止めた。この情景を歌ったのが、讃美歌39番「日暮れて四方は暗く」(新生讃美歌478番「共にいませわが主よ」)である。
-ルカ24:28-29「一行は目指す村へ近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」
・もし、彼等が引き止めなかったら、イエスは先に行かれ、彼らはその人がイエスであることは分からなかったであろう。イエスは求める者にはその姿を現される。求めない者はイエスに出会うことは出来ない。信仰は自由であり、自発である。イエスは外にたって戸をたたいておられる。戸を開ける者はイエスに出会い、開けない者は出会わない。二人の弟子はイエスを強いて引き止めたから、イエスに出会った。
-ヨハネ黙示録3:20「見よ、私は戸の外に立って、たたいている。だれでも私の声を聞いて戸をあけるなら、私はその中にはいって彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであろう」。
2.弟子たちがイエスを認識する
・イエスは二人の求めに応じて、食事の席につかれた。そして、イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」時に、「二人の目が開き、イエスだとわかった」とルカは記す。
-ルカ24:30-31「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
・「イエスがパンを割かれた時、二人はその方がイエスであるとわかった、私たちは「パンを割く」、つまり主の晩餐を通じて主キリストに出会う。だから、二人は興奮して語る「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」。
-ルカ24:32二人は、『道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか』と語りあった。」
・復活は理性で認識できる事柄ではない。弟子たちも目の前にイエスが現れるまでは、「愚かなこと」と復活を信じていない。しかし、失意の中にエマオに戻る途上のクレオパとシモンが、エマオに着くや否や、食事をとることも忘れて、喜び勇んでエルサレムに戻って行ったのは、歴史的な事実である。
-ルカ24:33-35「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」。
3.エマオの出来事と私たち
・二人の旅人は十字架のあるエルサレムから逃げて来た。現実から逃げていく時、そこには悲しみしかない。しかし、その悲しみにイエスが同行され、力を与えられ、彼らはまた、現実の中に戻って行く。この物語が私たちに示すことは、救いとは「死んで天国に行く」ことではなく、「生きている現在に神の国に招かれる」ことだ。それを知った時「絶望が希望に変わり、逃げてきた現実に再び戻り、その現実を変えるために働き始める」。この二人の生き方は変えられた。それが復活の主に出会うことだ。
・神は求める者には応えて下さる。二人の弟子たちはイエスを引き止めたから、イエスは共にいてくださった。私たちも神の名を呼ぶ時、目が開けて、イエスが共にいてくださることを知り、その時、私たちは新しい命を受ける。新しい命を受けた者は次の者に命を伝えていく。二人の弟子は沈んだ心で、エマオに向かっていた。その弟子たちが復活のイエスに出会い、心が燃やされた「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)。そしてすぐにエルサレムに戻る。三時間かけて歩いてきた道を、夜遅くにもかかわらず、疲れているにもかかわらず、引き返した。自分たちの知った喜びを、他の人たちと語り合わずにはおられなかったからだ。復活の主に出会うとは、悲しみで始まった旅立ちが、喜びと讃美に変わることだ。
・悲しむ人は人生の半分しか見ていない。イエスの十字架死を見て「もう終わりだ」と嘆く二人の旅人も、人生の半分しか見ていない。しかし、人生にはもう半分がある。神が私たちを愛し、私たちが絶望の中に沈む時に、再び立ち上がることができるように手を貸して下さるという事実だ。そのしるしとしてキリストが復活された。そのことを知った時、私たちは変えられる。復活とは単に「死んだ人が生き返る」という生物学的な現象ではなく、「死を超えた命が示される出来事」なのだ。それは、神がこの世界を支配しておられることを信じるかと問われる出来事なのだ。私たちは「たまたま生まれ、たまたまここにいる」のではなく、「人生には意味があり、生かされている」ことを確認する出来事なのだ。
・復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであることに注目する必要がある。復活のキリストは信仰がないと見えない。エマオに向かう二人の弟子も、自分たちの悲しみで心がふさがれている時にはイエスがわからなかった。二人がわかったのは、イエスがパンを裂いて祝福された時、すなわち彼らの信仰の回復をとりなして祈られた時だ。マザー・テレサはカルカッタの修道院で教師をしていたが、ある日、路上に捨てられて死につつある老婆の顔の中にイエスを見て、教師の職を捨て、奉仕の仕事についた。しかし、他の人には、その老婆はただの死につつある人にしか過ぎなかった。同じものを見ても、心の目が閉じている人には見えない。エマオの出来事はそのことを私たちに示す。
・蓮見和男は語る。「人は死ぬ、その生は朽ち果てる、ではその生は無意味だったのか。誰がその意味を決めるのか、神のみ。無から有を造り、有を無に帰せしめ、そしてまた、無から有を造り出す神なしには、この人生は無に過ぎない。しかし、神、愛なる神がいます故、全て意味が出てくる。死んだ者は、空しく朽ち果てるのではない。アウシュヴィッツ、ヒロシマの死者は空しく葬り去られるのではない。生ける者と死せる者の主となられた復活の主はそのことを教える」(蓮見和男・聖書の使信「ルカによる福音書」から)。虚しくないものがここにある。それを伝える場所が教会であり、それを証しするのが私たちだ。