江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年2月1日(ルカ24:36-53,イエスの復活顕現と昇天)

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1.弟子たちの前に現れたイエス

 

・復活されたイエスはエマオで弟子たちの前に現れた。ルカ福音書独自の記事である。二人の弟子は食卓でのパン裂きの時に初めて、その方がイエスであるとわかった。

-ルカ24:30-31「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。

・イエスの顕現に接した二人は、「時を移さず出発してエルサレムに戻った」。彼等がエマオに到着したのが夕暮時、イエスと食卓を囲んだのが午後7時頃、それからエルサレムまで3時間の道のり、エルサレムに着いたのは夜中近くであった。しかし、二人は「心が燃えて」、「復活の主に出会った」ことを語らずにはいられなかった。彼らは他の弟子たちに報告するためにエルサレムに急ぐ。

-ルカ24:32-35「二人は、『道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も道で起こったことや、パンを裂いて下さった時にイエスだと分かった次第を話した。」

・エルサレムでは、弟子たちが集まり、「シモン・ペテロに復活の主が現れた」と語り合っていた。エマオから引き返して来た二人の弟子が、復活のイエスに出会った次第を話していると、そこへ突然イエスが現れ、彼等を祝福した。弟子たちは亡霊かと恐れおののいた。

-ルカ24:36-37「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」

・復活のイエスを眼前にし、疑い恐れる弟子たちに、イエスは亡霊ではないしるしとして体を見せる。

-ルカ24:38-42「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いをおこすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。蝕ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見える通り、私にはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。」

・イエスは、モ―セの律法から始め、預言書、詩編と聖書全体から自らの使命を説き起こし、聖書に書かれている事は必ず実現すると断言された。

-ルカ24:44-46「イエスは言われた。『私についてモ-セの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は必ず実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に復活する。』」

・イエスは、「これから、世界宣教が始まる。あなたがたは宣教の証人になるのだ」と弟子たちに語られた。

-ルカ24:47-49「『「また、その罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々へ宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい。』」

 

2.イエスの昇天

 

・すべてをなし終えたイエスは弟子たちとベタニアへ赴き、弟子たちを祝福して昇天された。

-ルカ24:50-53「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内に居て、神をほめたたえていた。」

・ルカ福音書はイエスの昇天で記述が閉じられている。ルカ福音書続編の使徒言行録は、イエス昇天から物語が始まる。イエスの働きが、地上の体としての教会に委ねられて行ったことをルカは示す

-使徒言行録1:3「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。

・弟子たちが最初に行ったことは、集まって祈ることだった。そこには、イエスに従ってきた男や女たち、イエスの母や兄弟もいた。そこにはペテロもいた、イエスの裁判の時に「その人を知らない」と裏切った弟子だ。そこにはトマスもいた、復活のイエスの話を聞いて、「私は自分の手をそのわき腹の傷に入れるまで信じない」と疑った弟子だ。生前にイエスをメシアと信じられなかった家族もいた。キリストを裏切った者、キリストを疑った者、信じなかった者たちが集められている。

-使徒言行録1:13-14「使徒たちは・・・都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

・イエスは天に上り、弟子たちは地に残された。使徒信条は語る「(主は)三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られる」。ここにあるのはキリストの復活、昇天、臨在、再臨だ。復活のイエスに出会った使徒たちは、「終末が既に来た」と受け止め、「イエスはいなくなられたが、今なお天におられ、私たちを見守っていて下さる」と理解した。

-使徒言行録2:33-36「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなたがたは今このことを見聞きしているのです・・・だから、イスラエルの全家ははっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 

3.私たちにとって復活とは何か

 

・復活の記事は私たちに多くのことを教える。弟子たちが復活を信じたのは、復活のキリストが弟子たちに現れたからだが、最初は弟子たちも信じることができなかった。婦人たちの証言を聞いても弟子たちはそれを「たわごと」と思い、エマオに向かう弟子たちも同伴したイエスがわからなかった。エルサレムに残った弟子たちも、「亡霊を見ている」のだと思った。復活とはそれほど信じることの難しい出来事だ。私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たち自身が復活のキリストに出会った時である。

・聖書学者ブルトマンは「新約聖書と神話論」の中で語る。「復活について歴史的に確認できるのは初代の弟子たちの復活信仰のみである。キリストの甦りとしての復活祭の出来事は決して史的出来事ではない。史的出来事としては、復活祭信仰は初代の弟子たちの信仰だけが把捉しうる」と。学問的には彼の語る通りで、人間の理性で判別できるのはそこまでだ。それに対して、教義学者カール・バルトは反論する「ブルトマンは、甦りの出来事を“復活者を信じる信仰の発生”として解釈している時、復活の出来事を“非神話化”している。復活者を信じる信仰の発生は、復活者が歴史的に出現することによって起こって来るのであり、復活者の歴史的出現それ自体が甦りの出来事である。イエスご自身が甦って彼の弟子たちに現れ給うたのであって、そのことが甦りの歴史と甦りの時間の内容であり、その当時とあらゆる時代のキリスト教信仰とキリスト的宣教の内容である」。

・復活は理性では信じることの難しい出来事だ。復活者に出会ったのは、すべて弟子たちであったことに注目する必要がある。弟子たちはイエスが復活することなどまるで予期していなかった。しかしその弟子たちがイエスとの再会後、命を懸けて復活を証言する者になる。N.T.ライトは「驚くべき希望~天国、復活、教会の使命を再考する」で語る。「人は理性だけでキリスト教信仰の中心的真理にはたどり着けない。ここにあるのは創造と正義の神の存在を認める世界観とそうでない世界観のぶつかり合いである。信仰者はそれが真実であることを知っている。しかし説明できない。それは体験すべきものである」。

・キリスト者は、それぞれの場で、復活のキリストに出会う。復活のイエスに出会ったから復活を信じる。そして復活を信じることによって、死の縄目から解放される。死の縄目から解放された時、死ですべてが終わらないから、現在の生を大事にする生き方をすることが出来る。死に勝たれた方がおられるから、私たちは現在がどのように絶望的で、出口が見えない状況にあっても、希望を失わずに生きていくことが出来る。この復活の希望があるからこそ、私たちは自分の十字架を負って、イエスに従っていく。

・聖書学者小河陽は語る。「イエスの死後に、イエスの信従者たちが安息日(土曜日)の代わりに日曜日に集まって神礼拝を行うようになった事実は・・・父祖伝来の慣習を突然に棄てることさえさせた外的な要因を考えざるを得ない」。(「復活信仰についての最近の研究を巡って」) 。「外的な要因」とは、弟子たちの「復活のイエスとの顕現体験」であり、この「生けるイエスとの臨在体験」が教会を形成した。この初代教会の体験がやがて、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となった」(1コリント15:20)という神学的解釈=信仰に昇華されていく。

・教会はこの復活信仰の上に立てられている。教会は日曜日を「主の日」と呼び、礼拝を守る。初代教会は土曜日の安息日を「日曜日」に変えた。これは大決断だった。日曜日はそれほど重い日であり、私たちは復活の主に出会うために日曜日に教会に集まる。日曜日はHoly Day (聖日)」であって、「Holiday (休日)」ではないのである。

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