1.イエス亡き後の弟子たち
・使徒言行録はテオフィロへの献呈の辞で始まる。テオフィロはローマの高官とされる。ルカは「先に第一卷を著わした」と記し、その第一巻「ルカ福音書」冒頭の献呈文にもテオフィロの名が記されている。使徒言行録はルカ福音書と同じ著者によって書かれている続編である。
・ルカ福音書はイエスの昇天でその記述が閉じられている。
-ルカ24:50-53「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。
・それを継承する使徒言行録は、イエス昇天から物語が始まる。最初にイエスの復活から四十日間の次第が要約して語られ、食事の席でイエスから、使徒たちへの聖霊のバプテスマが約束され、宣教の使命が使徒たちに託される。
-使徒1:4-5「彼らと食事を共にしていた時、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」
・弟子たちは死を超えて復活されたイエスを見て、今こそイスラエル再興が可能になると期待した。イエスは、「今、あなた方がなすべきことは、あなた方が見たこと聞いたことを、ユダヤはもちろん、サマリアや異邦の人々に伝えていくことだ」と言われた。その活動こそが神の国を形成していくのだと。
-使徒1:6-8「使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』」
2.イエスの昇天
・イエス昇天後、弟子たちは不安に包まれた。その彼らに天使の声が響く「天を見つめてイエスがいないことを嘆くのではなく、地を見つめてやるべきことをしなさい」。この声に促されて、弟子たちはエルサレムに戻る。
-使徒1:9-11「こう話し終わると、彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」
・使徒1章にはイエスの昇天と再臨予告が記されている。宇宙への旅が現実となっている現代、神の国が大空の上にあると言っても誰も信じないが、「使徒言行録」の書かれた二千年前の人たちは「神の国は天上にある」と信じていた。使徒信条はイエスが「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」と告白する。現代の私たちは信条や記事の象徴化を考える必要があろう。
-森本あんり・使徒信条から「使徒信条の告白する『天』ははじめから非空間的な概念であり、『昇天』とは復活者キリストの栄光の確認手続きであり、栄光の座すなわち『全能の神の右』への高挙の表現であって、『天』とはこの神の栄光の神を表す神学的な用語である」。
3.ユダに代わる使徒の選出
・「地を見つめて生きる」とは、現実を見つめ、今何をなすべきかを知ることだ。自分たちはまだ、サマリア人や異邦人に伝道する準備は出来ていない。否、同胞のユダヤ人にさえ、伝えることが出来ない事実を知ることだった。弟子たちは、エルサレムに戻り、仲間と心を合わせて祈った。そこにはイエスに従ってきた婦人たち、イエスの母や兄弟たちもいた。イエスの兄弟たちは、かつてはイエスを取り押さえに来た。イエスを裏切ったペテロも、イエスの復活を信じなかったトマスもそこにいた。キリストを裏切った者、キリストを疑った者、信じなかった者たちがここに集められている。
-使徒1:12-14「使徒たちは『オリ-ブ畑』と呼ばれる山からエルサレムへ戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると泊まっていた家の上の部屋に上った。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フイリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
・ペトロはイエスを裏切って死んだユダについて語り始めた。ユダがここにいないという事実は、自分たち自身の弱さ、逃亡、裏切りを思い起こさせる。自分たちにもっと愛があればユダが裏切ることはなかったかもしれない。いや裏切ったのは、ここにいるみんなも同じだ。ユダの問題はキリストを裏切ったことではなく、キリストの群れに戻ることが出来なかったことだ。ユダが群れに戻れず死んでしまったのは、自分たちがユダを受け入れず、必要な配慮をしなかったためだとペテロは自分を責めている。
-使徒1:15-17「ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。『兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました』」。
・ユダが欠けた使徒の欠員の補充のためにくじ引きがなされ、マティアが新しい使徒に任じられた。
-使徒1:21-23「『そこで、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。』そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフとマティアの二人を立てて・・・二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。」
・新しい使徒の選別の要件は、「最初からイエスに従い、復活と昇天を目撃した者」である。パウロの使徒性が疑われた原因は、パウロが直弟子ではなかったことだ。しかし選ばれたマティアはこれ以降顔を出さない。目立った働きがなかった。使徒言行録の中心はパウロである。主の選びと人の選びは異なる。
―第二コリント3:2-3「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
4.教会の誕生
・使徒言行録は2000年前に始まった神の教会の物語だ。11人で始まった群れがどのようにして教会となり、福音を述べ続ける共同体に成長していったのかを記す。この物語を読む時、私たちは出来事の背後に物語に一貫性と意味を与える活動主体のあることに気づく。この物語は初代教会の人々の働きを描く。人々が働く、しかし、その背後で人々を導くのは神である。神がこの教会の形成者であり、行為者である。
・教会の形成は紆余曲折を経てなされた。最初の教会、エルサレム教会は決して一枚岩ではなかった。当初はペテロが教会の指導者となるが、やがてイエスの兄弟ヤコブが教会指導者に代わる。後にはパウロが異邦人伝道者として現れてくるが、パウロとヤコブの間には激しい対立が起こり、教会は何度も分裂の危機を迎える。しかし、その対立を乗り越えて福音は伝えられていった。
・また、イエスは「神の国はすぐ来る」と言われた。初代教会の人々は自分の持ち物を売り払い、共同生活をして神の国の到来を待った。しかし、神の国は到来せず、人々の間に失望が広がった。しかし、その失望を乗り越えて福音は広がって行った。何故なら、教会を形成されるのは神であり、神の業はどのような状況下でも進行していくからだ。
・サウロが教会を迫害した時、キリストは「何故私を迫害するのか」とサウロに呼びかけられた(使徒行伝9:4)。教会はこの世において、キリストが選ばれた形なのであり、キリストの体なのだ。だから私たちは教会に集まり、教会でキリストと出会い、力を与えられて教会を出て行くのだ。この教会を通して神の業がなされると信じるから、私たちは教会に集まる。