江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年7月6日祈祷会(ルカ10:25-42、良きサマリア人の譬え)

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1.善きサマリア人の譬え

 

・良きサマリア人の譬えはルカだけが記す。律法の専門家がイエスを試し、自分の知識を誇ろうとして、「永遠の命を継承するため何をなすべきか」と質問した。イエスは彼の下心を見抜き、「律法にはどう書いてあるか、あなたはどう解釈するのか」と反問される。律法の専門家は逆にイエスに試される羽目になった。

-ルカ10:25-26「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが「律法に何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか』と言われた」。

・彼は申命記6:5、レビ記19:18を引用し、見事に答えた。イエスは彼を褒め、「律法に書かれている隣人愛を実行すれば永遠の命が得られる」と教えられた。

-ルカ10:27-28「彼は答えた。『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」

・律法の専門家はイエスに「隣人とは誰か」と聞き返した。

-ルカ10:29「しかし、彼は自分を正当化しょうとして、『では、自分の隣人とは誰ですか』と言った。」

・イエスは強盗に襲われた旅人の譬えで、律法学者の質問に答えた。エルサレムからエリコまでの約30キロメ-トルの道のりは険阻な山道であり、盗賊が出没した。旅人は強盗に襲われ、瀕死の重傷を負わされ、路上に倒れた。通りかかった、祭司とレビ人は、関わり合いを避けて通り過ぎてしまった。

-ルカ10:30-32「イエスはお答えになった。『ある人がエリサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向う側を通って行った。同じようにレビ人もその場所へやって来たが、その人を見ると、道の向う側を通って行った。』」

・祭司は関り合いになるのを恐れて通り過ぎたのであろうが、同時に「遺体に触れて身を汚してはならない」(レビ記21:1)という律法違反を恐れた。ここに、律法の形式的遵守が隣人愛の実行を妨げていた可能性が出てくる。次のレビ人はエルサレム神殿に仕える下級祭司だ。当時の神殿には8千人の祭司と1万人のレビ人が働いていた。譬えの登場人物として、最初に祭司を、次にレビ人を持って来られたイエスの心中には、当時の神殿制度に対する批判があったのだろう。何千人もの祭司やレビ人が神殿に仕え、祭儀を執り行っているが、彼らはそれを職業として、生活の糧を得るために仕えているのであり、民のためではない。それを神は喜ばれるだろうかという批判である。

・その後、通りかかったサマリア人は、何の躊躇もなく倒れている旅人に近づき、介抱して宿まで運び、デナリオン銀貨二枚を渡し、「不足なら帰りに払うから」と約束し、世話を頼んで宿を旅立った。

-ルカ10:33-35「『ところが旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨を二枚取り出し、宿屋の主人に言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」』

・サマリア人は「憐れに思った」から手助けした。憐れに思う=ギリシア語スプラングニゾマイは、スプランクノン(内臓)から来ている。「内臓が痛むほど動かされる」、異邦人であるサマリア人が、民族的には敵になるユダヤ人を介抱したのは、「内臓が痛むほど、心が揺り動かされた」ためだとイエスは言われる。「人に自分の境界線を越えて行為をもたらすもの、それが愛だ」とイエスは言われている。イエスは「永遠の命は理論ではない。愛の実践こそ永遠の命である」と教えられた。

―ルカ10:36-37「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎにかかった人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」

 

2.私たちはこの物語から何を聞くのか

 

・私たちはこの物語から何を聞くのか。イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのにしようとはしない」と言うことだ。愛とは、「誰が隣人か」と問うことではなく、「あなたも同じようにしなさい」(10:37)という言葉に従うことだ。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは、「心を揺り動かされる」思いだ。そして「隣人になることを通して関係性が生まれる」。助けられた旅人はもはやサマリア人は汚れているから交際しないとは言わないだろう。聖書を私たちに語られた物語として聞く時に、それは私たちに行為を迫る。

・荒井献は「聖書の中の差別と共生」の中で、マルティン・ルーサー・キングの説教を紹介する。

-キングの説教から「祭司たちが助けなかったのは、私の想像では彼らは恐れたから。彼らの最初の問いは『もし私がこの人を助けるために立ち止まったら、私に何が起きるのだろうか』。けれどサマリア人は別の問いをした『もし私がこの人を助けるために立ち止まらなかったら、この人に何が起きるのだろうか』」。

イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのに、しようとはしない」と言うことだ。愛とは、「誰が隣人か」と問うことではなく、「あなたも同じようにしなさい」(10:37)という言葉に従うことだ。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは、「心を揺り動かされる」思いだ。そして「隣人になることを通して関係性が生まれる」。助けられた旅人はもはやサマリア人は汚れているから交際しないとは言わないだろう。聖書を私たちに語られた物語として聞く時に、それは私たちに行為を迫る」。

 

3.今日の物語としての「良きサマリア人の譬え」

 

・多くの人がこのイエスの言葉に心を動かされて行為した。自殺防止のために相談を受け付ける「いのちの電話」が全国にあるが、元々はイギリスの教会の「Samaritans(サマリア人)」から始まった。増加する自殺に心を痛めた英国のクリスチャンたちが、教会の地下室に電話を引き、相談を受けるようになった。その動きがドイツにも、そして日本にも広がっていった。日本では1971年に始まったが、開設趣意書には次のように書かれている「いのちの電話は、苦悩の多いこの時代に生きるものが、互いに良い隣人になりたいという願いから生まれた運動です。キリスト者の有志が始めた仕事ですが、誰でもこの運動を理解する人々の協力を求めます」。開始から50年が経ち、今では教会色が薄められて来た。ノンクリスチャンの人々が継承してくださるのであれば、教会の役割は終わったのかもしれない。教会は教会にしか出来ない新しい業を始めていけばよい。

・教会にしか出来ない業、それはイエスの十字架に「心を揺り動かされて行う」業だ。何をなすべきか、何が出来るのか、それぞれが自分の置かれた状況の中で考える。負傷した人を助けたサマリア人は彼を宿屋にまで連れて行った後で、旅を続ける。自分の仕事を放り投げて助けたわけではない。私たちは「為すべきことを為しうる限りに」行えばよい。出来ないことを求められているのではない。

・「善きサマリア人」を基にした「Good Samaritan Law」が、アメリカとカナダにある。災難や急病にかかった(窮地にある)人を救うため無償で善意の行動をとった者が、良識的かつ誠実に救いに尽したのなら、たとえ結果が失敗に終わったとしても、その責任は問わないと定めている。法には対応の結果を恐れず、早急に急病人に対応しようという積極性がある。

・人は「隣人になることを通して」、他者と関係性を持つ。助けられた旅人はもはや「サマリア人は汚れているから交際しない」とは言わない。機会があれば、今度は助ける側に回る。その時「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エペソ2:16)という言葉が実現する。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)とイエスは言われた。与えることによって、関係性が広がっていく。この物語は私たちに「日常から一歩を踏み出す勇気を与え」、「その一歩が隣人との和解を導く」。

・信仰は行為を伴う。それは聖書が繰りかえし、私たちに教えることだ。

―マタイ25:31-40「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』

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