1.「種を蒔く人」の譬え
・イエスは、当初はユダヤ教会堂(シナゴーク)で宣教されたが、律法学者やパリサイ人はイエスを敵視するようになり、会堂の扉を閉じた。そのため、イエスは弟子たちを連れて巡回伝道に出られた。イエスの周りには大勢の群集が集まってきた。その群集に、イエスは譬えで話をされた。
-ルカ8:4-8「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスは譬えを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気が無いので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」
・この譬えは群衆ではなく、弟子たちに語られている。イエスは譬えを通して、宣教の現実を語られた。大勢の群衆がイエスの周りに押し寄せるが、彼らは病気が癒されると立ち去り、イエスを顧みようともしない。ファリサイ人や律法学者らは、敵意をむき出しにしてイエスに迫る。しかし必ずイエスの言葉に耳を傾ける人が出てくる。イエスはそれを信じて宣教を続けられた。
-ルカ8:9-10「弟子たちは、この譬えはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
2.「種を蒔く人」の譬えの解説
・11節から譬えの意味が解説される。この部分はイエスの言葉ではなく、初代教会がイエスの喩えをどのように聞いたかが記されている(御言葉=ホ・ロゴスはイエス以後の初代教会の伝道に用いた言葉)。弟子たちの目には宣教の成果が見えてこない。気落ちしがちの弟子集団にこの喩えが示すのは、「収穫は必ずある」という使信である。ある種は道端に落ちて鳥に食べられ、ある種は土の薄い土地に落ちて育たず、ある種は茨に覆われ枯れてしまう。農夫も蒔いた種が全部発芽するとは思ってはいない。農夫にとって、どんなに種の無駄があっても、種蒔きは止められない、収穫は必ずあると信じているから種蒔きに励める。この「種蒔きの喩えの解説」は福音の種を蒔く者、伝道者への励ましなのである。
-ルカ8:11-14「『この譬えの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去られる人たちのことである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉は聞くが、途中で人生の思い患いや冨や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。』」
・イエスは「神の国が来た」と宣教され、多くの人々がその言葉を聞いた。福音の種が蒔かれた。それにもかかわらず、イエスは十字架で殺され、イエスの宣教は挫折した。福音の種は、道端に落ち、岩地に落ち、茨の中に落ちて、芽を出さないか、すぐに枯れてしまった。イエスが十字架にかかられた時、弟子たちもイエスを見捨てて逃げ出した。「この人はメシアではなかった」、弟子たちは失望し、イエスの伝道は失敗した。その弟子たちにイエスは言われた「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(8:10)。弟子たちはイエスの十字架刑に動揺し、いなくなった。道端や石地や茨の地に落ちた種のようだ。御言葉を聞いても種は根付かないし、芽を出さない。弟子たちが本当にイエスに従う者になったのは、イエスの復活後だ。イエスの十字架刑の時に逃げ出した弟子たちが、復活のイエスに出会って戻って来て、今度はイエスのために死ぬ者に変えられていった。
・イエスの復活を通して、弟子たちの心に蒔かれ続けていた福音の種が芽を出した。その時、弟子たちは「無駄になる種はあっても最後には御言葉は豊かな実を結ぶ」ことがわかった。「私たちは、御言葉のために困難や迫害が起きて、つまずきました。私たちは、世の心遣いや富の惑わしの中で、御言葉を聞いても、実を結べませんでした。しかし、復活のイエスに出会い、私たちのような者でも赦されていることを知りました。もう、迷いません」。弟子たちは、イエスのために死ぬことさえいとわない者に変えられていく。
3.「ともし火」の譬え
・イエスは続いて「ともし火の譬え」を話される。御言葉を聞いて信仰を与えられた者は、それを隠しておくのではなく、進んで他人の前にそれを現せと命じられる。主の働きの証し人になる、その志を持っている者はさらに信仰を与えられ、志を持たない者は持っていると思っていた信仰さえも取り去られる。
-ルカ8:16-18「『ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来た人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。』」
・イエスは「ともし火の譬え」を用いて、福音は隠すことなく世の人々に語り伝えねばならないと教えられた。御言葉は聞くだけではだめなのである。「聞く」ことと、「聞いて受入れる」ことの間には天地の差がある。聞いて受入れる、自分の思いを捨てて、御言葉に従う時に、本当の収穫が与えられる。
-ヨハネ9:41「イエスは言われた『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』」。
4.イエスの母、兄弟
・ルカはイエスの母と兄弟たちがイエスに会いに来たが、イエスは会おうとはされなかったと述べる。
-ルカ8:19-20「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった」。
・ルカはこのエピソードを種蒔く人の譬えのすぐ後に置き、「神の言葉を聞き、行う人は、神の家族になるのだ」と意味づけている。
-ルカ18:21「するとイエスは、『私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」。
・最初に書かれた福音書の著者マルコはこの話を別の文脈に置き、家族に受け入れられなかったイエスの悲しみの言葉として記す。歴史的事実としてはマルコが語るように、イエスの宣教活動は生前の家族には理解されなかったと思われる。
-マルコ3:20-35「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来・・・た。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである・・・イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『私の母、私の兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここに私の母、私兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
・生前のイエスは肉の家族を持たない者として生きられ、弟子たちにも家族を捨てるように求められた。ルカはその寂しさを訴えられるイエスの肉声を伝えている。
-ルカ9:58「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。
・しかしイエスの復活後、家族もイエスが「キリスト」であることを認め、礼拝の場に参加している。十字架と復活の出来事が、肉の家族の頑なだった心を砕き、肉のつながりを超える新しい家族を形成するという出来事が起こった。
-使徒言行録1:14「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。
・イエスの弟ヤコブはやがてはエルサレム教会の指導者となり、紀元62年にはユダヤ教徒の迫害の中で殉教していく。かつてはイエスに激しく反発していた弟ヤコブが、「イエスの名」のために死んでいく者になった。彼は手紙の中で、イエスを「主」と呼んでいる。神の不思議な業である。
-ヤコブ1:1「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」。
-ヤコブ2:1「私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」。