1.漁師を弟子にする
・イエスの癒しに熱狂した民衆は、ゲネサレト湖畔のイエスのもとへ押し寄せて来た。イエスは地元の漁師であるペテロに、岸から漕ぎ出すように言われ、舟の上から、人々に教え始めた。
-ルカ5:1-3「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二艘の舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこで、イエスは、そのうちの一艘であるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から教え始められた。」
・ペテロと仲間たちは夜を徹して漁をしたが、何も取れず、気落ちして網を洗っていた時にイエスに出会った。ペテロは船上で語られるイエスの言葉を聞いたが、何も感じなかった。漁の不作で心がふさがれていたからである。そのペテロにイエスは、「沖に出て網を降ろしなさい」と言われた。
-ルカ5:4-7「話し終わった時、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。そして、漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった・・・彼らは来て、二艘の舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」
・漁は深夜から夜明けに行うのが通常であり、昼に漁をしても収穫が少ないことをペテロは経験から知っていた。しかし、「お言葉ですから」と答えて網を降ろした。すると、ありえないことが起こった。思いがけない大漁にペテロは、イエスにただならぬものを感じ、その前にひざまずいた。
-ルカ5:8-11「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです』と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸へ引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」
・夜通し働いても一匹の魚も取れず、疲れ切って網を洗う現実がこの世にはある。数千枚のチラシを播いても誰も来てくれない伝道集会もある。人間の智恵や経験では教会は形成できない。その限界を超えるものがイエスの呼びかけである。「もう一度やって見なさい」という招きに、「やってみましょう。お言葉ですから」と応答する時、虚しい現実が豊かなものになる経験を人はする。その圧倒的な神の力に接した時、人は神の前にひざまずく。
-ゴルヴィッアー「教会はイースター(キリストの復活)の後に起こったのではなく、ペンテコステ(弟子たちへの聖霊降臨)と共に始まったのでもない。教会はペテロがイエスの言葉に従って網を降ろし、驚くべき出来事を経験した時に起こったのだ」。(イエスの死と復活―ルカ福音書による)
2.ガリラヤでの復活のイエスと顕現体験がルカ5章に挿入されている
・ヨハネ21章は復活のイエスとの顕現体験を描いているが、その記事は驚くほど、ルカ5章の弟子の召命記事と似ている。
-ヨハネ21:1-7「イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された・・・シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『私は漁に行く』と言うと、彼らは、『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。
・ルカ5章でペテロは言う「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(5:8)。この言葉はイエスを三度否認したペテロの罪意識を表しているとみられる。ルカはここにイエスの復活顕現伝承を用いて、弟子たちの召命記事を描いているのではないかと注解者の市川喜一は書く。
-市川喜一著作集から「ルカの記事(5:1-11)は、イエスの受難の後ガリラヤに戻って漁に出ていたペトロたちに、復活されたイエスが現れて、福音の宣教に立ち上がるように召された出来事を伝える伝承(ヨハネ21章)を、ルカが地上のイエスがペトロを召された記事として用いたものであろう。復活されたイエスの顕現に接した弟子が、ガリラヤでの生業を捨てて、復活者イエスを証しするためにエルサレムに移住する決意をしたことを描く記事として理解すべきである」。
3.らい病を患っている人の癒し
・イエスが町におられた時、全身を「らい」に冒された人が来た。当時の人々はらい病を神の刑罰によるものと考え、宗教的に「汚れた者」と呼んだ。彼らは町の中に入ることを許されず、道を歩く時には「汚れているから近寄らないでくれ」と言うことを義務付けられていた(レビ記13:45-46)。らい病を患っている人はイエスならば憐れんでくれるかもしれないと思い、必死でイエスのところに行った。
-ルカ5:12-13「イエスがある町におられた時、そこに全身らい病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります』と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまちらい病は去った」。
・らい病を患っている人は町に入ることを禁止されていた。彼の行為は律法に反することであり、石で打ち殺されても仕方のない、命の危険を犯す無謀な行為だった。それでも彼はイエスならば憐れんでくれると信じ、必死でイエスのところに行き、癒しを求めた。社会はらい病を汚れた病として忌み嫌ったから、彼自身も自分を汚れていると思っている。「自分は罪人で清めていただく価値は無いかもしれませんが、それでもどうか憐れんで下さい」とこの人は願った。イエスは、彼の必死の訴えの中に、彼の悲しみと苦しみを見られ、命の危険を冒してまで自分を求めてきたその行為に感動された。マルコ福音書では「イエスは深く憐れまれた」(マルコ1:41)とある。
・「らい病」は差別語として廃され、今では「ハンセン氏病」と呼ばれているが、病菌は20年以上に及ぶ潜伏期間を経て発病し、遺伝性疾患とされ患者の家族を巻き込む悲劇を生んだ。日本ではらい予防法を制定して隔離政策をとり、医師の届け出義務、療養所への患者の強制入所を定めた。しかし、その後、治療法の進歩で、1996年らい予防法は廃止、2001年元患者らを原告の提訴で熊本地裁は国に賠償を命じ、同年、謝罪と反省文を加えた「ハンセン病賠償法」が成立した。
・イエスは癒された人に「この事を誰にも話してはいけない」と厳しく戒められた。イエスはらい病者を憐み、癒されたが、この癒しは信仰の出来事だった。死の危険を顧みず必死に求めた、らい病者の願いに応えた行為であった。それは神の憐れみを与える信仰の行為であり、病を癒すことが目的ではなかった。しかし、人々がイエスに求めたのは信仰ではなく、癒しであった。「もっと癒せ、何故もっと癒さないのか」、多くの人が癒し人イエスの前に列をつくった。イエスは人々に「神はあなた方を愛されている」ことを伝えるために来られた。その神の愛の一つの現れとして病の癒しがある。しかし、人々には神の愛よりも癒しを求めた。そのような人々を避けるために、イエスはこの人に「この事を誰にも話すな」と命じられた。人々がイエスの癒しを求めて集まった時も、群衆を避けて離れたところに退いて祈られた。
-ルカ5:15-16「イエスは厳しくお命じになった。『だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せモ-セが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。』しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を癒していただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」
・多くの人がイエスの憐れみの業を継承して生きた。キング牧師はアメリカ南部で黒人が人間以下に扱われ、社会から排除されているのは父なる神の御心ではないとして、差別撤廃のための公民権運動に従事し、その運動を通して多くの人がキリストに出会っていった。マザー・テレサは、カルカッタの路上で捨てられて死んでいく人たちを見て、イエスがらい病者を見て感じられた「はらわたがねじれるような痛み」を感じ、「死者の家」を作って、人々をそこで看取った。そのマザーの行為を見て、人はそこにキリストを見出し、教会に導かれていった。彼らの原点はイエスの癒しにある。イエスの癒しは単に肉体的な病の癒しではなく、魂の癒しだ。病気は癒されてもやがてその人は死に、その癒しは終る。しかし、魂の癒しは人の死を超えて生きる。教会はこの魂を癒されるイエスの業を伝えていく。私たちの周りにも癒しを求める多くの人がいる。その人たちにどうやってイエスの癒しの業を伝えていくのか。
-マタイ18:14「これらの小さい者の一人が滅びることは、天にいますあなたがたの父の御心ではない」