江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年4月20日祈祷会(ルカ5:17-39、中風の人の癒し、レビの召命と断食問答)

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1.中風の人を癒す

 

・イエスの癒しの評判を聞いて、大勢の人々が集まって来た。エルサレムからは律法学者たちがイエスを監視するために来た。そこに四人の男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んできた。

-ルカ5:17-18「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法学者たちがそこに座っていた。この人々はガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気を癒しておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。」

・大勢の群衆がいるため、病人をイエスの前に連れて行くことが出来なかった。彼らはあきらめないで、家の屋根に登り、瓦をはいで、病人をそこから床のままでつり降ろした。それは常識はずれの行為だった。あたりには粉塵が立ちこめた。イエスは必死で自分を求めてきた人々の信仰に感動された。

-ルカ5:19-20「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」。

・中風は現代の脳卒中で、発作後、意識が回復しても、後遺症で手足の麻痺や言語障害が残ったりする。イエスは中風の男に罪の赦しを与え、起きて歩くことを命じている。イエスの癒しの業は「罪の赦し」が基本であった。当時、病気は罪の結果として理解されていた。

-ルカ5:21-26「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、一体だれが、罪を赦すことができるだろうか、』イエスは彼らの考えを知って、お答えになった、『何を心の中で考えているのか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取りあげ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った。」

・イエスは律法学者たちに、「何故あなた方は病人が癒されたことを共に喜ぶことが出来ないのか、何故神が示されたこの憐れみを共に讃美できないのか」と問われている。癒しの中核にあるものは必死の求めだ。らい病人は殺されるかもしれない危険を冒して町に入り、イエスの前にひれ伏した。中風の人を運んできた男たちは、人の家の屋根をはぐという非常識なことまでしてイエスを追い求めた。両者ともこの時を逃したらもうイエスに会えないかも知れないという切迫感の中で、イエスを求めている。私たちがイエスに出会うのは、往々にして、私たちが苦しみの中にある時だ。苦しいから必死に求め、必死に求めるから応えて下さる。その意味で、苦しみや悲しみが私たちを祝福に導く。

 

2.レビを弟子にする

 

・イエスはカペナウムの収税所にいたレビに、「私に従って来なさい」と招かれた。レビはこれに従った。

-ルカ5:27-28「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」。

・マタイ福音書によれば、このレビは、「マタイ」とされている。

-マタイ9:9「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。

・取税人はローマのために税を徴収し、しばしば過酷に取り立てたため嫌われ、宗教的には汚れた者として社会から排除されていた。そのレビをイエスが弟子として招かれた。彼は、取税人であるために、社会からのけ者にされていた。その彼に預言者として評判の高いラビが声をかけ、弟子として招いてくれた。レビは感激した。その感謝の気持ちを示したいと願い、イエスと弟子たちのために盛大な宴会を開いた。

-ルカ5:29「そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」。

・席上にはレビの同僚である取税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もいた。罪人とは律法を守らない者たちを指し、ファリサイ派にとってこのような人々と交わることは身が汚れることであった。ましてや同じ食事の席につくことは考えられなかった。だから彼等はつぶやいた。

-ルカ5:30「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。』」

・「律法は取税人や罪人との交際を禁じているではないか」と彼等はイエスに問い質した。それに対してイエスは医者を必要とするのは病人であると答えられる。

-ルカ5:31-32「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」

・自らを正しいとする人は律法を守らない、あるいは守れない人を排斥することによって、自分の正しさを維持しようとする。イエスは彼らの頑なな態度を批判される。イエスは言われる「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためだ」。「神の国に招かれるのはあなたがたではなく、あなたがたが批判するこの人たちだ」とイエスは言われた。ある牧師は述べる「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである」。

 

  1. 断食について問答する

 

・ファリサイ派の人々は、イエスと弟子たちが断食しないことを責めた「ヨハネの弟子たちやファリサイ派断食し、祈っているのに、あなたの弟子たちはなぜ食べたり飲んだりしているのか」。イエスの時代には週二回、月曜日と木曜日に断食するのが慣習になっており、断食しない者は律法を守らない者と批判された。

-ルカ5:33「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」

・ファリサイ派は神の国(天国)に入るために、必死になって律法を守ろうとした。イエスにとって神の国に入る人は「神の招きに応える人」であった。取税人として疎外されてきたレビが、悔改めて招きに応じた。「今日はそのレビが救われた祝宴の日ではないか、祝宴の日に何故断食するのか」とイエスは言われている。

-ルカ5:34-35「そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。』」

・イエスはパリサイ人に二つの譬えを話された。一つ目は「新しい布と旧い着物」の譬えである。新しい布とはまだ水に通していないため縮んでいない布である。その新しい布を旧い着物に継ぐと、洗った時に新しい布は大きく縮んで旧い布を引っ張り、裂け目を大きくしてしまう。新しい着物から布をとって旧い着物に継ぐのが愚かなことを知っているのに、何故、何時までも旧い慣習の中で不自由な生活を送っているのかとイエスは言われている。

-ルカ5:36「そして、イエスは譬えを話された。『だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう』」。

・二番目の譬えは「新しいぶどう酒と古い皮袋」の例えだ。パレスチナでは、ぶどう酒は羊の皮袋に入れて保存される。新しい皮袋は柔軟性があり伸縮性もあるが、古くなると弾力性が無くなってくる。他方、新しいぶどう酒は発酵力が強く膨張しようとするから、弾力性をなくした古い皮袋に入れると破裂してしまい、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまう。新しい内容には新しい形式が相応しい。

-ルカ5:37-39「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

・イエスはファリサイ人たちに言われた「神を愛するとは人を愛するということではないか。律法とは罪人を排斥することではなく、受け入れることではないのか。取税人や罪人もまた神の子であり、彼らが悔改めて神の元に帰ってくることは喜ばしいことではないのか。共に罪人の悔改めを喜び、祝宴の時を持とうではないか」と呼びかけられた。しかし、ファリサイ人たちはこのイエスの呼びかけを拒否した。

・律法と福音はどう違うのか。律法は人がどう生きるべきかの指針を示す。それ自体は正しい。しかし、それはやがて掟となり、掟である以上、破った者は裁かれる。人々は裁かれまいとして掟を守ることに汲々とし、守らない者を否定し、排除していく。他方、福音は赦しであり、赦されたから感謝する。行為そのものが目的化しないため、行為しない者を裁かずに受け入れることが出来る。福音の行き着くところは他者の受け入れだ。そして教会は、「律法ではなく福音」を宣べ伝える、従って教会の本質は自分と異なる他者の排除ではなく受け入れだ。もし教会の中に審きがあれば、即ち「あなたは要らない」という言葉があれば、そこは教会ではなくなる。

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